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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

今日も呼んでおられる

 4月28日(日)、「平成最後の礼拝・・・」とは言いませんでした。特段意識しているわけでもなく、むしろ4月最後の礼拝という思いの方が大きかったですね。様々な恵みを数えつつ、心からの礼拝を捧げました。

 礼拝後は、年に一度の一食断食祈祷聖会。「こういう祈りを毎月でも積み重ねていけるといいなあ」と思うのですが、牧師の気持ちが急いているでしょうか? 夕方、紋別のHさんが以前よりもよくなっていると電話があり、安心しました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190428
(250字のエッセンスは、コチラです)

 13節に、弟子たちの名前が記されています。舌を噛みそうなこの弟子たちの名前に続いて、いやその中に私たちの名前があるということも忘れてはいけないのです。弟子たちの名前が聖書にこのように羅列されているように、私たちの名前も、命の書に、天に記されているということを確認して頂きたいのです。

 そして教会とは何かと問われるならば、その一つの答えとして名前が呼ばれるところと言っても良いでしょう。私たち一人ひとりの名前を、父なる神が呼んでくださっているのです。父なる神は、失敗作品をお造りになるお方ではありません。みな、神の作品であり、特別な思いを込めて、愛をもって私たちの名前を今日も呼んでおられるのです。



 多種多様な個性の集まりである教会は、ひたす心を合わせて祈っていました。祈りに専心していたのです。教会は祈るところなのです。主の約束を信じて祈る中で聖霊が注がれ、教会は生まれました。

 主イエスは「私の家は祈りの家と唱えられるべきである」と言われたように、教会は祈りの家なのです。単なる社交の場ではありません。世間話をしてはいけないということではありません。しかし私たちの交わりは、祈りに始まり、祈りに貫かれ、祈りによってまとめられていくのです。それは私たちの心を、真実な神に向けていくということです。

 弟子たちは、主イエスが言われた父の約束を信じて祈り続けました。教会とは、お互いの意見をぶつけ合うというところではなく、主の御言葉を握って神に祈るところなのです。私たちも、そこを大切にしていきたいのです。



(1日1章 Ⅱ列10章「主がエリヤに」)

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礼拝メッセージの断片集 |

怪談ではなく

 4月21日(日)は、イースター、復活祭でした。イースターの朝には白百合を活けながら、共に復活の主を喜び祝いました。礼拝後は祝会をし、C君のクイズ、ゲーム、プレイズ・ダンス、誕生祝い、玉子隠しゲームなどを楽しみました。

 退院されたIさんが、久しぶりに礼拝に集われました!Kさんの心を尽くされた送迎にも感謝します。入院されている紋別のHさん(Iさんと同じ年齢)にも、同じ主の御業がなされていくことを祈っています。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190421
(250字のエッセンスは、コチラ

 主イエスは「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と言われました。恐らく弟子たちにとって言われたくない言葉だったでしょう。経験豊かな漁師の弟子たち、一晩漁をしたけれど何もとれず、疲れが倍増していたはずです。しかし弟子たちは、「はい。ありません」と現状を主イエスに伝えました。「今日は調子が悪かったのです」「かつては沢山取れました」「天候が良くなかった」など、そういう言い訳を言いませんでした。自分自身の、そのままの現実を主イエスに語ったのです。

 自分が何か不調を覚えて病院に行って、医師から「どこが悪いんですか」と尋ねられたら、「調子の悪いところはありません」と言うならば、治療は進んでいきませんね。主イエスは「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました。

 私たちが自分の弱さや罪を認めないで、「あの人がどうだから、こうだから・・・」と言い、罪や弱さをどんなに繕っても、隠して上手くいってるふりをしても何の解決にもなりません。私たちがつい言い訳をしたくなるところ、強がってしまうところ、隠しておきたいこと、言いたくないところ、そういう弱いところにこそ、復活の主が必要なのです。主に現状を示されたなら、ありのままを申し上げ、「主よ、助けてください」と今朝、ご一緒に祈ろうではありませんか。



 舟の右側に網をおろすと、多くの魚がとれました。あまりにも魚が多かったので、弟子たちはそれを引き上げることができなかったほどだったのです。何とか引き上げてとれた魚を数えてみると、153匹だった言うではありませんか。この153匹を弟子たちは喜びながら数えたことでしょう。

 主の言葉に聞き従う時、153匹の魚を数えた弟子たちのように、主がしてくださったことを喜びながら数える人生に招かれていくのです。「お岩さん」みたいなキリスト者になっていませんか? うらみ・つらみ、良くないことをいつまでも数え続けることです。「あの時にこう言われた、1枚」、「あの人にこんなひどい目に、2枚、3枚」・・・それは怪談です。

 私たちは主がしてくださったことを喜びながら数えるその秘訣は、主の言葉に聞き従うということです。私たちが主の言葉に聞き従う時、戸惑うほどの、主の恵みを体験させていただけるのです。



(1日1章 Ⅱ列13章「ああ、主は」)

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礼拝メッセージの断片集 |

降りられなかったのではなく

 4月14日、妻は奏楽者のHさんと一緒に紋別での礼拝に出かけました。北見を任された私は、皆さんと一緒に受難週の礼拝を捧げました。

 以前にCさんが「賛美の時に男性と女性で分かれて歌いたい」と言われていたので、「男性の皆さんでご一緒に歌いましょう」とか「それでは女性の皆さんで」「ご一緒に」というように賛美リードをしました。女性の皆さんだけで賛美される声の美しさ、男性の皆さんの力強さ、一緒に賛美できる喜びが湧き上がってきました♫ 以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190414
(250字のエッセンスは、コチラ

 十字架の上で「父よ」と、神に呼びかけた後に続く主イエスの願いは何だったでしょうか。もし私たちが冤罪で十字架にかけられたとしたら、その時、何を祈り何を願うでしょうか。普通は、恐らく「神よ、ここから降ろしてください」、「彼らを罰して下さい」、「私をこのような目に遭わせた者たちの目を覚まさせてください」、「こんな不当なことがまかり通る社会でいいのですか」という言葉かもしれません。

 しかし主イエスは「彼らをお赦しください」と祈られるのです。周囲の人々は一瞬、我が耳を疑う言葉だったでしょう。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と祈り願うのです。今、自分をののしり、上着も下着も奪い、くじ引いて我が物にしようとしている者ために、またあざ笑い、自分を十字架にかけている人々のために、そして他の誰でもない私のために罪の赦しを祈られたのです。



 「王ならば、神の子ならば、救い主ならば、だったら十字架から降りて来い。自分を救え。自分自身を救えなくて、どうしてこの世を救うことができるのか」、そう人々は言ってののしりました。

 主イエスは、十字架に釘付けにされていたから、だから降りられなかったのではありません。全能の神の子ですから、十字架から降りることなどいとも簡単にできるのです。主イエスは十字架から降りられなかったのではなく、降りなかったのです。私たちの罪を身代わりに背負うための十字架ですから、それを途中で放棄されないのです。苦しみの十字架から降りてご自身を救うということとは全く違って、十字架にかかることによって私たちを救うのです。



 主イエスの十字架の救いによって、私たちは父なる神との和解が与えられます。この神との和解というものが、実は私たちの人生に決定的に大切なものなのです。父なる神との和解、つまり信仰関係、信頼関係が与えられていることこそ、幸いなのです。

 私たちは何か嫌なことが起こればそれを災いとし、良いことが起これば幸いと思います。もちろん良いことが起これば素直に喜んで感謝してもいいのです。しかし私たちの環境や境遇が上手くいっていようと、たとえそうでなかったとしても、大切なことはそこで主イエスの十字架を通して父なる神を、信仰をもって見上げることです。父なる神との関係が和解されている、信仰関係、信頼関係が堅固であるならば、どんなところを通っていても、信仰、希望、愛を失わずに歩んでいけるのです。それが救われている者、主イエスの十字架によって父なる神と和解している者の幸いなのです。



(1日1章 Ⅱコリ9章「良いわざに富ませる力」)

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礼拝メッセージの断片集 |

自分のために泣く

 4月最初の日曜日(4/7)、受難節ということもあって、十字架に向かう出来事をご一緒に分かち合っています。「ちょっと難しいなあ」と思う聖書箇所で、「やはり違うところからにしようかなあ」と何度も思いました。自信はありませんでしたが、聖霊に励まされながら最初に決めたとおりの聖書箇所からメッセージを取り次ぎました。(以下は、礼拝メッセージの断片集です)

20190407
(250字のエッセンスは、コチラ

 (28)「イスラエルの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」と主イエスは言われました。これはどういう意味でしょうか。

 私たちの感覚では、少しこの主イエスの言葉に「?」を覚えないでしょうか。自分自身のことで泣くのではなく、主イエスのために涙を流す、それが信仰者だと思うのです。それは間違いではないでしょう。しかし主イエスはここでは、そうは言われません。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と子どもたちのために泣きなさい」と言われます。

 主イエスのそばに仕えられた女性たちであれば、主イエスの姿を見て「なんてひどい」「おいたわしいことだ。かわいそうに」と思って嘆き悲しんでいたことでしょう。その気持ちはよく分かるのです。しかし、少し卑近な例をあげるならば、映画やドラマでひどいシーンを見て涙を流すことがあります。そして口には、ポップコーンを運びます。感動の涙も流すのです。そして映画が終わったら「さあ、美味しいものをどこに食べにいく?」、大げさに言えばそういう涙に通じていくものがあり、それは違うと主イエスは言われるのです。

 ドラマを見ながら感情移入をする、それはドラマの中のことです。ある面、自分の人生とは関係ない涙です。しかし主イエスは、彼らが泣いているその涙の方向、また涙の意味が違うと言われるのです。単に十字架に向かう主イエスに同情し、「主よ。嘆かわしいことです」と流す涙は違う。主イエスは不当な十字架を背負い、むち打たれ、つばきされ、ののしられながら、ゴルゴタの丘に向かっていかれます。これは一体何のためか?「それは、あなたの罪のためですよ」と、主は語れるのです。

 この主イエスの言葉を簡単に言えば、「自分の罪のために泣きなさい、悔い改めの涙を流しなさい」ということでしょう。さらに言えば、「自分の罪に泣いてもいいんだ」と私たちを招かれるのです。

 「あの人がどうとか、この人が分かってくれないとか、無理やり背負わされたとか、家族や職場の方の理解がないとか、どうして自分だけこんな目に遭うのかとか、今の政治家が悪いとか、ひどい世の中だとか、もっと社会はこうあるべきだ」そういう訴えもあるかもしれません。

 しかし周辺の問題は1つ解決しても、また1つ新たな火種が起こり際限ないものです。本当の問題は、自分自身にあると気づいて、自分自身の罪をこそ嘆くことを主は勧めておられるのです。「自分の弱さを隠して、評論家にならなくていい。愛のない正論を叫ばなくてもいい。自分自身の内側にあるどうしようもできない弱さを隠して、自分を上手く見せなくてもいい。それを見つめる、主イエスに打ち明ける、辛いこと、悲しいことです。しかし主イエスは、そのことを思いっきり泣きなさい。嘆き悲しみなさい」と言われるのです。なぜなら、それこそ御心に適う悲しみ、あなたを悔い改めに導き、十字架の救いに導く、復活の喜びにつながっていくからです。

 そういう救い主、主イエスの後を私たちは一緒に歩んでいくにです。罪を悲しむ教会でありたいのです。自分の罪を、また隣人の罪を「我らの罪をお赦し下さい」と祈り、愛と赦しを受け取る教会でありたいのです。そして十字架の向こう側に必ず復活があると信じて希望をもって歩む教会、キリスト者でありたいのです。



(1日1章 Ⅱコリ2章「神のみまえで」)

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礼拝メッセージの断片集 |

それらは親戚関係です

 3月最後の日曜日。前の週は紋別へ出かけていたので、久しぶり感もありました。帰省などをされている方々もおられましたが、初めてお会いする方々もおられました。気温は低いものの、柔らかい日差しに包まれた朝で、「ちょっと元気がないかもしれない。あるいは眠いのかなあ。お疲れなのかなあ」と思われる方々に、「主よ、十字架の言葉を聞くことで新しい力を与えてあげてください」と講壇の上で祈りつつ、聖書のメッセージを語りました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

 ピラトは、群衆に妥協しました。この世と妥協したのです(ロマ12:2)。「みんなが言うから」、「仕方がない」ということでしょう。何が神の御旨なのか、何が善なのか、これは神に喜ばれることか、そういうことを問わなかったのです。判決に際して、ピラトは群衆の声ばかり聞いています。神がどう思われるか、何が本当に大切なことかを問うのではなく、その場の声に流されています。大切なことにおいて、妥協案、折衷案、「まあまあまあ」という誤魔化し、その場だけの事なかれ主義に陥っていないか、自分自身に問いかけたいのです。



20190331
(250字のエッセンスは、コチラ

 ねたみは、恨みやつらみとなっていきます。それらは親戚関係と言っても良いでしょう(御霊の実も、親戚関係でしょう)。ねたみを抱えたままでいる時、相手を生かさないだけではなく、自分をも生かさないのです。本当はねたみや恨みが絡まった人間関係を終わらせたいのです。しかし同時に、その恨みがあまりにも強いゆえに、「終わらせてなるものか!」という気持ちも抱いてしますのです。この怒り、こんな恨み、それを抱えたまま生きていくことは苦しいなことだと分かっているのに、私たちはそれを終わらせられないのです。辛いことです。



 結局、その日、十字架にかかるべき予定であったバラバがゆるされることになりました。バラバが担ぐはずの十字架を、主イエスはご自分の十字架として背負われるのです。本来、十字架にかかるべき者がゆるされ、その十字架を丸ごと主イエスは引き受けられたのです。

 バラバとは誰でしょうか?バラバとは、他の誰でもない私のことです。私のかかる十字架、私が受ける罪の罰、自分で洗い流せない恨み、終わらせられない罪の連鎖、そういうものを主イエスが全部引き受けて代わってくださったのです。ここに救いがある、ここに愛がある、愛とは身代わりになっても良いということです。



 「あいつを殺せ、十字架につけよ」と群衆の叫ぶ声を主イエスは黙って聞き続けます。その主イエスが、大声で叫ばれたのは「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」という祈りです。何をしているのか、何をしたいのか、罪の恐ろしさの全てを知らない私たちのために、祈られるのです。自分を「殺せ」と言う者のために、主イエスは「彼らを赦してください」と祈られるのです。この主イエスの赦しの言葉、十字架の言葉を私たちは信じていくのです。この主イエスの言葉を信じて救われるのです。



(1日1章 Ⅰ列17章「わたしの罪を思い出される」)

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