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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

1人にはしない

 北海道の9月とは思えないほど、暑い日となりました。礼拝の中でメッセージの主題に合わせて、「主がここに」という賛美を歌いました。北見では初めて賛美した曲でしたが、皆さんすぐに歌えているようでした。礼拝に初めて来られた方もおられ、感謝でした。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190908
(250字のエッセンスは、コチラ

 1人きりになっているヤコブに対して、天から梯子がかけられました。梯子は普通、高い所に登るためにかけるものです。しかしヤコブが見たのは天から自分に向かって架けられる梯子でした。石ころを枕にするしか無い、何もない自分に、天から梯子が架けられ、御使いが上り下りしているのを見ました。ヤコブを1人にはしない、ヤコブのためならば、天の御使いをも使わす、そういう父なる神の思いがこの梯子にあるのでしょう。



 マタイ18:20で、主イエスは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と言われました。主の御名によって集まる主の教会に、礼拝の中に主はおられるのです。教会はキリストの体、血の通ったキリスの体 主の教会に主がおられないことは、あり得ないことなのです。



主がここに

 神のために生きることを土台とする時、それは結果として、他者のために生き、また自分を生きていくということになり、命が生き生きとします。しかし自分のために生きるということが土台になると、残念ながら、全てが崩れていくことになります。なぜなら、人は神のために生きる者として造られているからです。

 神のために生きるということ、それは神と共に生きるということから始まります。神と共に生きることで、神の愛に満たされ、また隣人を愛することになり、人を恨むのではなく愛が心に満ちているという状態は、自分自身にとって幸いなこととなるのです。今週も主なる神と共に生きる、主がご一緒して下さる、そのことを大切にして参りましょう。




(最後に賛美した「善き力にわれ囲まれ」)

(1日1章 エステル5章「怒りに満たされた」)

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礼拝メッセージの断片集 |

開いてくださった

 9月最初の日曜日。私は穏やかにたゆたうサロマ湖とオホーツク海を眺めながら、紋別へ向けて出かけました。この日は札幌からGさんご夫妻が集われ、ご一緒に礼拝と交わりを持つことができ感謝します。10月20日に紋別でご奉仕をしてくださるので、その下見、準備のために遠路わざわざやってきてくれました。

 北見でも恵みの1日を過ごしたようです。感謝。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20190901
(250字のエッセンスは、コチラ

 エフタはかつて追い出された経験、家族から裏切られた過去があります。遊女の子がいると財産分与が少なくなるからということでした。自分たちの都合によって追い出し、苦しい目にあうと戻ってきて助けて欲しいと言うのです。追い出しておいて、今度はリーダーにするからとまで言うのです。人の言葉は状況で変わるものです。

 しかし真実な神が証人となられ、偽りのない主が全てをご存知だ、エフタそこに立ったのです。全てをご存知であり、真実な主が証人になってくださる、だからエフタは前を向けたのです。もはや過去のしがらみや、自分が生まれてきたことを恨むこと、そういうことから解放されていきました。真実な神は裏切られることはない、主を証人として歩むということ、それは希望をもって歩んでいくことにつながっていくのです。



Ⅰペテロ2:22−23「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」

 主イエスも十字架を背負いながら、正しくさばかれるお方にお任せになりました。怒りに縛られて、怒りに支配されて愛や平和を壊してしまわないように、むしろ正しくさばかれる方にお委ねし、怒りを治める力を主イエスにいただこうではありませんか。

 1節にエフタは「勇士」だと紹介されています。彼は単に「勇気のある強い人」ということではなく、自分の怒りという感情を治めることの出来る人、そういう勇士にここでなったのです。



20190901開いてくださった

 エフタという名前には、「開いてくださる、開いてくださるように」という意味があるそうです。真実で、公平で、愛の神が開いてくださるということです。不満や怒りに縛られて、心を閉ざす人生ではありません。全てをご存知で、私たちを見つめおられる、証人として主がご一緒してくださるから、私たちも心を開いて、過去に縛られず、前を向いて、希望が開かれた歩みをすることができるのです。

 また恨みに縛られ閉ざされた歩みではなく、正しくさばかれるお方を仰いで礼拝する時、むしろ平和を造り出すために、愛をもって生きるという開かれた歩みをさせていただけるのです。今まで見えなかった主の恵み、主の真実が目の前に開かれていく、そういう歩みをさせていただけるのです。



(1日1章 Ⅰテサ3章「耐えられなくなって」)

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礼拝メッセージの断片集 |

自分を主張せずに済む

 8月25日(日)の朝、礼拝堂に向かうと子どもたちに「はい、◯◯君、こんばんは〜!◯◯ちゃんも、こんばんは〜!ショートカットが似合ってるね〜」などと元気よく挨拶すると、「こんばんはじゃなくて、おはようだよ〜」と言われてしまいました・・・。どうしたのでしょう、私(笑)

 前の週は雨が降ったり、前日は雷が鳴るなどした北見地方でしたが、この日は土砂降りの雨が上がった後のさわやかな天気の良い日でした。礼拝では「雲が雨で満ちると」という賛美を歌いましたが、「フリー」にしておけば良かったなあと思いました(笑)

 礼拝後はお弁当愛餐会、そして清里町に向かってオホーツク・ブランチ礼拝に出かけました。車に5人が乗って、行きも帰りも楽しく笑いながら、また心の奥の方がジーンとくるような往復3時間以上の道中でした。もちろん清里町での礼拝も、その後の夕食タイムも幸いなひと時でした。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190825
(250字のエッセンスは、コチラ

 創世記2章3節で、神が創造の第7日を「聖であるとされた」と言われました。この場合、創造の第七日が汚れていたので、その汚れを聖めたわけではありません。この世界に罪が入り始めるのは、3章になってからで、ここはまだ2章の段階です。罪も汚れもない天地創造の7日目を聖別されたとは、どういう意味でしょうか。それはこの7日目を他の1日目〜6日目までとは、特別なものとして区別された、分離されたということです。

 ここは、聖さの本質を現しています。第7日には「なさっていたすべての創造のわざを休まれた」ました。もちろん、神は天地創造のをされたので、へとへとにお疲れになったから休まれたのではありません。「神のかたち」に造られている人間と共に、「非常によかった」という思いを共有したいという、特別な日を迎えられたということです。命の喜びを祝福として一緒に味わうこと、そういう安息を私たちとご一緒するために、特別に区別してその日を造ってくださったということです。



 ある牧師は、「清いとはどういうことでしょう。それは自分を主張しようとする思いがそこにないことです」と言われました。その通りです、自分を主張せずに済むということは本当に幸いです。私のこの思い、私のこの傷、私の、私のという、そういうことを言わなくても大丈夫なのです。それは、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という神の思いで満たされているからです。神との関係の中に、ごちゃごちゃしたものが一切入る必要がありません。それが、人格関係における聖別です。私は神のものとされている、そういう安息があるから、安心して生きていくことができるのです。そしてその結果として、私たちは神の喜ばれないことは選択しないという聖い行いに生きることができます。

 今朝、「聖め」のメッセージだから、「聖く生きなければいけない」、「私のあの部分、この部分、聖めなければいけない」、そういうメッセージと思ったかもしれません。それも大切なメッセージで、きっと私よりもずっと聖いお方であるY先生がそういうメッセージを語ってくださるでしょう。今日はそれ以前のこと、、主は「あなたはわたしのものだ」「あなたはわたしの愛する子だ」「わたしはあなたを喜ぶ」と、あなたを区別し特別なものとしている神のもとで憩いなさい、安息を得なさい、そうやって私たちを招いている、主のものとして、聖なるものとしたいと願っている主を心から賛美しましょう。



 聖められるということは、私たちが良い人になるとか、品格が整えられる以上のことです。聖められる、聖別される目的があります。それは神の奉仕者としてふさわしくされること、主の働きのために用いられていくということです。



(1日1章 ネヘミヤ9章「われわれの罪のゆえに」)

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礼拝メッセージの断片集 |

ビクトリーラン

 8月18日(日)、前の週の台風の影響もなく、爽やかな天気の日となりました。礼拝後に最高齢のIさんが体調不良に陥りましたが、この日は看護師のKさんが集われていて、祈りつつ適切な処置がなされ、しばらくソファで横になった後、立ち上がって帰宅されました。夕方からのEnglish Worshipには午前の礼拝と同じくらいの方々が集われました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190818
(250字のエッセンスは、コチラ

 男性のみなさん、忘れて欲しくない御言葉があります。ご一緒にお読みしましょう。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」(Ⅰテモテ2:8)つぶやきが争いにならないよう、主に叫びつつ手を上げて祈る、これこそモーセの姿ですね。そして男性の皆さんは特に(私も含めて!)、怒りたくなる時、言い争いたくなる時、どこででもきよい手を上げて祈る者でありたいのです。

 手を上げるのは形式ではありません、心も天におられる主に向けるのです。「私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう」(哀歌3:41)祈りの手の四十肩、信仰の手の五十肩の方はいませんか? 手も心も天に向かって上げること、それは主に対する信仰の姿勢なのです。



 モーセは祭壇を築きました。祭壇を築くということは、礼拝を捧げるということです。そして「主は代々にわたってアマレクと戦われる」と言いました。主がアマレクと戦われたのです。もちろん実際的には、ヨシュアも戦いました。しかし勝利を与えたのは、主なる神だったということです。そして「代々にわたって」とあるように、これからも主を信じる者のために主が戦われ、主が勝利を与えてくださるのです。主が戦われるのですから、私たちの主に敗北はありません。そのような勝利の主を、私たちは今日も礼拝しているのです!



 アマレクと言う敵が私たちにもあるでしょう。それは様々な誘惑、自分の古い性質、肉の思いかもしれません。サタンの力もあるでしょう。喜びを失わせる悲しみや痛みもあるでしょう。失望と言うアマレク、あきらめというアマレク。そういうアマレクに勝利を与えるのは、十字架の主イエス・キリストです!私たちの主は、罪と死と悪に打ち勝った勝利者なのでです!

 「アドナイ・ニシ」、主は我が旗。勝利の旗です。オリンピックで金メダルを取り、勝利した人は、国旗をなびかせながらビクトリーランをするではありませんか。私たちも共々に、主が勝利を与えて下さったと、主の勝利の旗でビクトリーランをする時がある、主を信じる者にはそういう希望が与えられているのです!つぶやきを捨て、信仰の手を上げ、心を合わせて祈り、共に勝利の旗である十字架の主を高くかかげましょう!



(1日1章 ネヘミヤ2章「わたしの神が」)

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礼拝メッセージの断片集 |

つぶやきを祈りに

 8月11日(日)の礼拝。この日の礼拝後すぐ、私はCAキャンプに出かけました!以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190811
(250字のエッセンスは、コチラ

 モーセは、イスラエルの民全体から、不平不満・つぶやきの嵐という攻撃にあいました。つぶやきたくなるのは、むしろモーセの方だと思います。どんなに苦労して出エジプトしきたことでしょうか。しかしモーセはつぶやかなかったのです。モーセは主に叫びました。すなわち主に祈ったのです。

 つぶやきからは、何の良いものも生まれてきません。むしろつぶやきは、私たちの心を、魂を、信仰を、人生全体を病んだものにします。しかし祈りは、愛と真実な神との交わりなので、私たちの魂を癒し、生かします。つぶやきを祈りに変えましょう。

 私たちの生活にはつぶやきたくなることが多くあります。しかし「こんなことがあって、あんな風に言われて、もう嫌だ、しんどい、おかしい」と、そこで終わらせてはいけません。その後、「主よ、助けてください」「主よ、憐れんでください」「主よ、あなたはどう思われますか」、そうやって、つぶやきを祈りに変える、これが信仰です。聖霊に励まされて、つぶやきから祈りへ、私たちの唇を主なる神に向けましょう。



 私たちの人生には苦みを味わうものがあります。ここでマラというのは苦いという意味で、のルツ記にも出てくる印象的な言葉として有名です。飢饉によって夫と2人の息子と共に外国へ亡命したナオミ。しかし夫に先立たれ、そればかりではなく、2人の息子にも先立たれ、息子の嫁ルツと共に故郷に帰ってきました。その時、ナオミは「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください」と言いました。決して甘くはない、苦しいほど苦味を味わう、そういうルツ記の1章を思い出します。

 しかし愛する兄姉、私たちの主イエスは、苦き坏をその身に飲み干してくださったお方です。罪のゆえに、不信仰のゆえに、つぶやいて、嫌になって、誰かのせいにしてしまう、そんな私たちの人生の苦さを、主イエスは全て飲み込み、十字架の上で罪の赦しを祈られました。私たちの代わりに、私たちの罪やのろいを背負い、十字架に掛けられた主イエスがいます。そして罪と死を滅ぼし、3日目に甦り、主イエスは信じる者と共におられます。この主イエスと共に歩む時、私たちの人生の苦さは癒され、生ける水が溢れてくるのです。



(1日1章 エズラ9章「長たる者が先だって」)

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