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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

前を向く

 7月7日の七夕の日曜日。2019年の後半最初の礼拝の日となりました。北海道・北見は暑いのか、寒いのか、ストーブを焚いたり、冷房を入れたり・・・。「もう今年の夏は終わりました」と勝手に宣言している人もいましたが、この日は久々に「暑いかも!」と思う日でした♬ でも夕方には涼しくなります。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20190707
(250字のエッセンスは、コチラ

 トウザーという牧師がこういうことを話しています。
「もしもあなたが誰かに説得されてキリスト教を信じたのであれば、誰か賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、誰もあなたを説得してキリストから離れさせることはできない」



 自分が失敗しないように、自分がほめられるように、上手くできるように、相手に言い負かされないように、自分の主張が通るように、自分の思い通りにいくように・・・。それは成熟したキリスト者の中心ではありません。それは肉の思い、私の思いが中心になった生き方で、自分の心が苦しく、虚しくなっていきます。愛する兄姉、大切なことは、内側におられる聖霊に働いていただくことを切に願うことです。そのことを願い祈る、それがキリスト者の成長、成熟の一歩なのです。



 ここで使われている「励ます」という言葉は、「前向きにする」という意味があるそうです。前とはどっちの方向でしょうか。もちろん積極的に、肯定的にという意味での前向きということもあるでしょう。しかしキリスト者にとっての前とは、主なる神のことでしょう。つまり、励ますといことは、愛と真実に神、命の神に向かって真っ直ぐに向かうようにするということです。私たちが誰かの助けになるということ、その目標は、前を向けるように、励ますということ、真実な神に向かっていけるように励ますということ、それが誰かの本当の意味で助けになるということでしょう。



(1日1章 Ⅱ歴14章「主の目に」)

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礼拝メッセージの断片集 |

傘をさしているなら

 6月9日(日)は、ペンテコステ礼拝でした。私は紋別へ行き、北見では妻が礼拝説教の奉仕をしました。聖霊は牧師であろうと伝道師であろうと、妻であろうと夫であろうと、全ての人に豊かに注がれるので、北見での礼拝はとても聖霊の恵みが豊かであったそうです。もちろん紋別も主の恵みが豊かだったのですが、帰宅してから私が紋別の様子を話す熱と妻が北見の様子を話す熱は、どうも妻の方に軍配が上がった(?)ようです。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

20190609
(250字のエッセンスは、コチラ

 神の恵みは男女の奴隷たちにも、身分の差別や区別もなく、全ての人に聖霊は注がれます。「雨を降り注ぎ」と賛美をしましたが、聖霊は雨のように注がれます。雨は誰の上にでも注がれ、人の状況いかんに関わりません。特別な人だけにだけ雨が注がれることも、良い農家だけではなく、悪い人と思われる人にも雨は降ります。あの人だけ、いつでもどこに行くにも雨が注がれる、それはあり得ないことです。

 ただし私たちの側が傘をさして覆いをしてしまうならば、恵みの雨に濡れることはないありません。私たちの側で心を閉ざしたりする時、それは聖霊の恵みを傘で覆っているようなものです。覆いを外して、手放しで心を一心に神様に向かって祈り求めるなら、大人も子どもも、男性も女性も、信仰歴などにも関係なく、みな聖霊の雨が注がれ、満たされていくのです。



 愛する兄姉には、聖霊による幻と夢があるでしょうか? どんな幻を、ビジョンを、夢を持っておられるでしょうか? その幻と夢は、聖霊によって与えられている幻と夢でしょうか? それとも自分の思いでしょうか? 自分の夢、自分の幻、自分のビジョンのために神を利用しようとするなら、それは失望に終わるでしょう。しかし聖霊によって与えられる幻ならば、その幻は幻のままで終わりません。聖霊によって与えられた夢であるならば、それは夢のままで終わりません。聖霊によって与えられた幻や夢ならば、それは必ず実現していくのです。



 教会全体が聖霊に満たされていく時、ここは駄目だとか、あそこはどうだとか、そんな言葉が小さくなっていきます。私たちは互いに、聖霊によって幻と夢を見させて頂き、それを語り合うことができるのです。「この神の思い、幻、夢の実現のために、私たちは何ができるだろうか。神はどんなことをして下さるだろうか」と、聖霊に満たされた教会、家族はそういう希望の言葉が満ちていくのです。聖霊による夢と幻は、私たちを元気にする力を持っています。



(1日1章 Ⅰ歴21章「ダビデを動かして」)

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礼拝メッセージの断片集 |

そこでこそ

 6月最初の日曜日、朝の気温が低かったので、妻は礼拝堂のストーブを微小で点けていました。私は「礼拝中、すぐに暑くなるよ」と言うのですが、「冷えていたし、暑いと思う人もいれば、冷え性も女性もいるから」とのこと。

 一週間の間に冷房を入れたり暖房を入れたりということはありますが、朝昼の中でもあるというこの寒暖差と日照時間長い中で特産の玉ねぎがよく育つように、栄光の主を仰ぎながら心からの礼拝を捧げました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

20190602
(2019年6月2日 250字のエッセンスは、コチラ

 シラスとテモテの到着が遅れ、生活費もなくなってきて、気落ちして疲れていたパウロ。しかしそこでパウロは何もしないのではなく、天幕作りという、今、自分ができることをしていく中で、全能の神が働かれました。まさかと思う場所で、アクラとプリスキラというかけがえのない夫婦にパウロは出会うのです。これから、この夫婦と心を合わせて宣教をしていくという新しいステージへ神様は招いてくださったのです。

 私たちも思うようにいかないこと、邪魔をされたかのように思うこともあります。それでも信仰をもって歩んでいく時、全てをその御手で握っておられる神は虚しく終わらせず、万事を益に変えてくださいます。一見遠回りと思うこと、一見無駄かなあと思うこと、実はそこでこそ万事を益とする私たちの主が働かれるのです。そして私たちを新しいステージへと引き上げてくださるのです。



 ある講師が「プレッシャーやストレスがある時、そこで自分の本当の性格が出てくる」と言われたそうです。私たちはいかがでしょうか。上手くいっている時の自分、何もない普段の落ち着いた自分をこそ見てもらいたいのです(笑)しかし上手くいかない時、邪魔をされる時、自分でも嫌だなあと思う内面が出てくるものです。ある意味、そういう自分が出てきても構いません。主を信じる私たちは、そこでこそ聖霊に励まされ、全てを支配し備えておられる主を仰いでいこうではありませんか。



 アテネでは孤軍奮闘し、疲れ果ててコリントに来たパウロ。しかしコリントでパウロは、一人で伝道したのではありません。アクラとプリスキラという夫婦、またシラスやテモテも加わり、チームで主の働きを進めていきました。愛する兄姉、主の教会の働きは、スタンドプレーではなく、チームプレーなのです。牧師や伝道師の働きだけでは、主の教会は進まないのです。主は全ての兄姉と一緒に働かれるのです。私たち夫婦には、アクラとプリスキラのような、またシラスとテモテのような皆さんというチームが与えられていることを心から神に感謝しています。



(1日1章 Ⅰ歴14章「送った」)

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礼拝メッセージの断片集 |

待ちぼうけの間に

 土曜日から月曜日まで、異常な暑さが続いている北海道です。皆さん、お元気でしょうか? 私は風邪からくる副鼻腔炎で、ダウン気味に過ごしていました。「風邪は万病の元」と言いますが、「予病」(多分こういう日本語はなく、医療品会社の造語だと思います)をしておかないと、思わぬ「余病」にまで至ってしまうかもしれないなあと、思わず健康談義をしてしまいそうな私です。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

20190525
(250字のエッセンスは、コチラ

 パウロはアテネでシラスとテモテを待っている時に、アテネの町に多くの偶像を目にしました。そして真の神が無視されていることに霊の憤りを覚えて、福音を語り始めるのです。恐らくアテネで宣教する予定は無かく、シラスとテモテを待っているだけのはずだったと思います。しかしその待ち時間の間、パウロは異教の偶像への聖なる憤りをもって、福音を語り始めました。

 待ち時間に伝道をするってすごいなあと思います。待ってる人が時間どおりに来なかったら、心配したり、イライラしたりするものです。しかしパウロは、待ちぼうけの間に福音を語るのです。聖霊に満たされるってこういう一面もあるだなあと教えられます。



 私たちはやがて神の前に立つ、その日があるということを忘れてはいけません。公平・公正である審判者である神の前に立つその日があるということは、ある面におうて恐ろしいと感じるでしょう。しかしその恐れは、神を畏れる畏れとなっていきm大きな意味でそれは恵みだということを忘れずにいたいのです。

 1つ目にキリストを信じる者には、赦しが与えられているということです。この大きな恵みは私たちの信仰生活の土台です。2つ目に自分が他者を裁くことから、解放されていくことになります。裁くことは私の仕事ではなく、全てを知っておられる主に委ねていくのです。そして私たちの目に見える部分は、一部分だと謙遜に生きることができます。裁くことは、高慢なのです。3つ目に審判者なる神を知っている時、誠実に生きていくことができるということです。審判者である神が全てを見ておられるから、罪を誤魔化さないで、主を悲しませたくないという歩みになっていくのです。



(1日1章 Ⅰ歴7章「悲しんだので」)

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礼拝メッセージの断片集 |

今日も呼んでおられる

 4月28日(日)、「平成最後の礼拝・・・」とは言いませんでした。特段意識しているわけでもなく、むしろ4月最後の礼拝という思いの方が大きかったですね。様々な恵みを数えつつ、心からの礼拝を捧げました。

 礼拝後は、年に一度の一食断食祈祷聖会。「こういう祈りを毎月でも積み重ねていけるといいなあ」と思うのですが、牧師の気持ちが急いているでしょうか? 夕方、紋別のHさんが以前よりもよくなっていると電話があり、安心しました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190428
(250字のエッセンスは、コチラです)

 13節に、弟子たちの名前が記されています。舌を噛みそうなこの弟子たちの名前に続いて、いやその中に私たちの名前があるということも忘れてはいけないのです。弟子たちの名前が聖書にこのように羅列されているように、私たちの名前も、命の書に、天に記されているということを確認して頂きたいのです。

 そして教会とは何かと問われるならば、その一つの答えとして名前が呼ばれるところと言っても良いでしょう。私たち一人ひとりの名前を、父なる神が呼んでくださっているのです。父なる神は、失敗作品をお造りになるお方ではありません。みな、神の作品であり、特別な思いを込めて、愛をもって私たちの名前を今日も呼んでおられるのです。



 多種多様な個性の集まりである教会は、ひたす心を合わせて祈っていました。祈りに専心していたのです。教会は祈るところなのです。主の約束を信じて祈る中で聖霊が注がれ、教会は生まれました。

 主イエスは「私の家は祈りの家と唱えられるべきである」と言われたように、教会は祈りの家なのです。単なる社交の場ではありません。世間話をしてはいけないということではありません。しかし私たちの交わりは、祈りに始まり、祈りに貫かれ、祈りによってまとめられていくのです。それは私たちの心を、真実な神に向けていくということです。

 弟子たちは、主イエスが言われた父の約束を信じて祈り続けました。教会とは、お互いの意見をぶつけ合うというところではなく、主の御言葉を握って神に祈るところなのです。私たちも、そこを大切にしていきたいのです。



(1日1章 Ⅱ列10章「主がエリヤに」)

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