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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

詩篇で祈る

何が正解か、だいたいのことは分かっているんです。
正解は、愛すること、赦すこと、希望を持つこと、委ねること、
祈ること、感謝すること、悔い改めること、捧げていくこと、
悪に負けないで善で打ち勝っていくこと・・・。

そう、分かっているんです。
何年も教会に行き、聖書を読み、礼拝を捧げていれば、
正解はだいたい分かるんです。

それでも、その正解を頭で分かっているということと、
魂の深いところで、そのことを納得していることとは、
また別の次元のことなのです。

模範解答を告白し、自分に言い聞かせるのですが、
それでも、相手に非があると思われること、
自分が被害者のようになっていることがらについては、
そう簡単に私の魂が納得しないのです。

あなたは主に本音を訴えていますか?
(醜い本音で主に叫んでもよいことを知っていますか?)


少し前のことですが、所属教団の月刊誌の巻頭言を読んでいて、
少々引っかかった言葉でした。
こういう表現が好きではなく、
最初は良くない引っかかりを持っていましたが、
筆者の意図通りに(?)、良い引っかかりになっていきました。

頭では忘れよう、委ねよう、赦そう、そう思うのですが、
簡単に割り切れないことが、たくさんあります。
白でもなく黒でもなく、グレーゾーンのような事柄があります。

引っかかっていた上記の牧師の言葉を思い出しました。
詩篇の作者のように、私は自分の醜い本音を、主に訴えているだろうか。
包み隠さず、醜い本音で主に叫んでいただろうか。

優等生的な模範解答を発して、
正解を自分に言い聞かせているだけではないか。
心の中で相手の非を責め理論武装してみても、自分の中にあるやましい思いを
どうしても偽ることが出来ないから、だから平安がないのではないか。

聖書と祈り

そんなことを思いながら、多くの信仰の先輩者が行ってきた
「詩篇で祈る」ということを私も始めています。

時に敵を恨み、呪い、ぎょっとするような表現がある詩篇です。
それは他でもない自分の心だったのだと改めて気づかされます。
そして詩篇の作者と同じ気持ちで、神様に祈ります。

神様の前にひざまずき、詩篇の作者と同じように嘆き、祈る時、
やがて絡まった糸がほどけていくような思いになります。
切なるうめきをもってとりなされる御霊を近くに覚えます。

パリサイ人のような「模範解答」の「たてまえ」に生きる歩みではなく、
自分に正直でありたいというきれいな表現のもとに、
自分のわがままな本音を貫くこうとする真に醜い本音でもない、
神様の本音に全身全霊が包まれていくことを感じます。

良くないと思っていた「引っかかり」が、
自分にとって必要なものと分かりました。
良い示唆を与えてくれる文章を記された前述の牧師に感謝します。



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