「デモクリ」から「ダカラクリ」へ2011-11-23 Wed 06:00
昨日の続きですが、Y牧師は「コソクリ」を推進し、
私は明るい「デモクリ」を勧めています。 (「コソクリ」は、あなたこそクリスチャン、 「デモクリ」は、それでもクリスチャン) このことを聞いたMさんは、 「コソクリって、こそこそしているクリスチャンのことと思って、 私のことだ~と思った」と言われていました(笑) 先月Sさんが札幌の教会で礼拝を捧げた時、 「ハレルヤ 私はクリスチャン」という賛美が面白かったとのこと。 それを聞いた私の妻も、教会に行き始めた頃、 「『ハレルヤ 私はクリスチャン』って賛美だろうか?」、 そして最初は歌うのが恥ずかしかったこと、 でも2番で御霊の実を覚えられるのが良かったと言っていました。 この賛美を「ハレルヤ 私でもクリスチャン」と替え歌をすると、 明るい「デモクリ」を勧める理由が良く分かると思います(笑)
「私でも」と歌う時は、やや早口になりますが、 2番の字余り・字足らずに比べればご愛嬌です(笑) 明るい健全な「デモクリ」のニュアンスが伝わると思います♪ そしてさらに言えば、「デモクリ」から「ダカラクリ」へ移行していく時、 「恵み」を充分に理解し味わっているクリスチャンでしょう。 「こんな私でも、神は愛してくれている」、その通りです。 でも本当は「こんな私だから、神は愛してくれている」のです! ![]() 「こんな私でも」という時、ぎりぎり神様が愛してくれている、 かろうじて神様の愛に乗っかっているイメージがあります。 しかし「こんな私だから、神は愛してくれている」となると、 神様の愛のど真ん中に自分がいる、そういうイメージです。 相変わらず失敗もする、嫌な自分が顔を出してくる、 こんな私だから駄目だ・・・ではなく、 こんな弱い私だからこそ、神様が必要です、 そういう「ダカラ」を知っているクリスチャンは、 「コソクリ」よりも素晴らしい「ダカラクリ」だと私は思います! そして「ダカラクリ」を自覚する者に、 御霊の実が備えられているのだと思います。 |
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