先日の礼拝は、海外宣教祈祷、子ども祝福式、誕生者祝福祈祷と盛りだくさんでした。5人の子どもたちが講壇の前にちょこんと並んでいる姿は、とてもカワイイですね。ただカラータイマーは3分も持ちませんが(笑)
午後からは、机をさらに2つ並べての愛餐会(昼食)でした。20人以上でしたので、2グループにして分かち合いをと思いましたが、今年いっぱいは全体でします(毎年同じようなことを言っていますが)。恵みや感謝と同時に、弱さをも分かち合って共に祈り合えることは、主の豊かさだと思います。
そして少し早いのですが、クリスマスの飾り付けをしました♪人数が多かったので、あっと言う間に終わりましたが、クリスマスの恵みは、これからも続いていきます!以下は、礼拝メッセージ(Ⅱ礼拝を含む)の断片集です。
「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる。 主のあわれみは尽きないからである。 それは朝ごとに新しい」 (哀歌3:22)この哀歌の言葉が私たちの土台にある時、あらゆる境遇の中でも神の恵みを見出すことができます。
パウロはピリピ書で「キリストの苦しみをも賜った」と述べます。賜った、つまり苦しみもまたギフトだと言うのです。
普通、私たちは苦しむことが嫌なのです。当然です。苦痛の除去を心から願います。しかしこのエペソ書を記すパウロにしても、初代教会の信仰の先輩者は、苦しみも賜物、ギフトだと言うのです。なぜなら、その苦しみは単なる苦しみで終わらないからです。主を信じる者が通る苦しみは、その苦しみを通ったからこそ知り得る、神の恵みがあるからです。

(250字のエッセンスは、
コチラ)
「キリストは低いところに下られた」と記されています。一番低いところ、光も見えない、希望もない、虚しさ、ドロドロとした罪、そういう所に、主イエスは下られたのです。意固地なったり、不安になったり、信じられなくなったり、そういう所、どん底のような惨めな所にこそ、主はまさに下られたのです。
だからこそ、今までは「感謝だなぁ」と思えなかったそのことに、キリストがそこに来て下さったからこそ見い出せる主の恵みがあります。
主イエスは、私たちのところに下られたのです。つまり「這い上がって来い」と高い天の上から言われているのではありません。いつの間にか祈りの言葉をなくしてしまっている私たちに、「もっと祈れ」というその前に、私たちの信仰がなくならないように先ず私たちのために祈られる主イエスがおられるのです。その主の祈りを知る時、私たちも祈る者となっていくのです。
何だかかんだかと言って愛せなくなっている私たちに、「何をやっているんだ、どうして愛さないんだ」と詰問されるその前に、主イエスが愛の小さい私たちをそのままで愛して下さるのです。その愛を知る時、愛が生まれてくるのです。自分がこの口で祈ったことも、決心したことも忘れてしまうような、そんな不誠実な私たちです。しかし「わたしはあなたに真実を尽くす、わたしはあなたを裏切らない」、今日もその真実な恵みが私たちに注がれているのです。
吹けば飛ぶような小さな信仰で、疑ったり不安になったりする、そんな私のところに下られて、「わたしはあなたを信頼している。からし種一粒の信仰でいい」そう言われる主の恵みの声を聞き続けようではありませんか。真の信仰は、そこから生まれるのです。
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