受難週を迎えました。Mさんのご両親とお孫さんたちが礼拝に出席され感謝でした。礼拝後はシチューを共にいただき、お互いの恵みを分かち合い、会堂清掃をしました。また夜はⅡ礼拝と続きました。以下は、礼拝メッセージの断片集です。
クレネ人シモンにしてみれば、同じシモンでも3年半も一緒にいた弟子のシモン・ペテロが十字架を背負うべきじゃないかと思ったかもしれません。
背負いたくもないものを背負わされることがあるということ、無いのではあるという事実の確認をしたいのです。キリストを信じた後も、パウロがⅡコリント11章で記しているような様々な「難」があります。「無い」なんて聖書も私も一言も言っていません。背負わされる十字架、使命、試練、苦難があります。主イエスも「自分の十字架を負い従ってきなさい」と言われた通りです。

(250字のメッセージのエッセンスは、
コチラです)
背負わされる十字架がある、この事実を知っていることは大切です。そして主イエスを信じる者はここで終わらないという、もう1つの事実を知っているはずです。それは、背負わされたと思うその十字架の道は、主イエスと同じように復活の道へつながっていくという事実です。
主イエスが十字架を背負い、罪をあがない、のろいを打ち破り、死から甦られたからこそ、苦しみは苦しみのままで終わらないのです。主イエスを信じ救い主と共に歩む時、全ての苦しみは生みの苦しみとなり、やがてそこに命の喜び、生きていることの感謝に復活の主イエスが変えてくださるのです。

(受難週の歩み、クリックすると別ウィンドウで大きく開きます)
主イエスが十字架を背負って歩まれたエルサレムの道をVia Dolorosa(悲しみの道)と言います。私は歩いたことはありませんが、エルサレムを訪れた人びとがこの道をたどります。9つのStationがあり、その内の1つにクレネ人シモンが十字架を背負った場所があります。
そして「ここがキリストが手をついた壁で、この凹みがそうだと言われている」というような説明を受けるそうです。そして多くの方々がこの凹みに手を置いて写真を撮るというわけです。

この凹みが果たして本当に2千年前のものかどうかは、私には分かりません。しかし主イエスが十字架を背負いつつ倒れたとことは、本当です。
私は何となく、自分は倒れたら駄目だ、失敗したら駄目だ、上手くやらないと責められる、恥ずかしいことだと思う節があります。しかし愛する兄姉、自分の十字架の重さに耐えかねて倒れることは恥ずかしいことではありません。主イエスも十字架を担って、ゴルゴタの丘に登るまで何度も倒れました。そして何度倒れても、どんなに苦しくても、十字架の道を放棄することはありませんでした。傷つきながら何度もながらもでもそれでも、あなたを愛することを諦めなかったのです。
だから主イエスご自身が、倒れる人の気持ちを辛さを誰よりも深く知っておられます。それゆえに私たちが倒れても倒れても、それでも起き上がる力を主イエスは与えて下さるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」と言われるお方は、十字架を背負うべき力をも私たちに与えて下さるのです。
そして背負ってよかった、祈り続けて良かった、愛し続けて、投げ出さなくて良かった、まさかこんな恵みが待っているなんて、「あー、生みの苦しみだったんだ」、そういう命の喜びを復活の主が与えて下さるのです。
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