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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

ある時とない時

 妻は紋別へ礼拝奉仕に出かけた日曜日、初めてお会いする方々もおられる礼拝、また午後からは結婚式の賛美の練習、夜はⅡ礼拝というプログラムでした。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

 関西人のソウルフード(?)551の肉まん。「551の肉まんがある時、・・・(めちゃくちゃ明るい家庭)」「ない時・・・(沈み込んだ家庭)」、「ある時」「ない時」という有名なCMがあります(例えばコチラ)。

 アブラハムの生涯で言うなら、祭壇を築き主の名を呼んで祈って行動を始めている時、そうしていない時、その後に起こってくる事柄に対してアブラハムの信仰の姿勢が違っていることに気付かされます。



 信仰というのは、自分が願っているとおりのことがなると信じていくことではありません。信仰とは自分の思いを信じるのではなく、神の言葉を信じていくことです。



20160828
(250字のエッセンスは、コチラ

 信仰には、希望と愛が伴ってきます。信仰を働かせてアブラハムの目の前に残ったものは、豊かな低地ではなく荒れ果てた地でした。しかしアブラハムは信仰を働かせた結果、「仕方がない」という諦めの思いが募ったのではなく、主に主に励まされ、むしろこの地が祝福されるという希望を持つことができました。

 またアブラハムは、甥のロトを恩知らずで自分勝手だと見捨てることはしません。この後14章、ロトが敵に捕まえられた時、アブラハムは救出に向かうのです。18章 ソドムとゴモラが滅ぼされると聞いた時、アブラハムは愛をもって必死にとりなし祈るのです。分かれていったロトに対し自業自得だとか、うらみつらみを持ち続けたわけではありません。愛を持ってロトを救出し、ロトのために必死に祈り続けるアブラハムの愛の姿があります。

 私たちが真実に信仰を働かせる時に、そこに希望と愛も生まれてくることを感謝しようではありませんか。



 祭壇を築くとは、主なる神に礼拝を捧げるということです。神を見上げて礼拝する時、私たちもアブラハムのように全てを神に任せることができ、委ねることができるようになります。自分の利益や自分の思いにこだわることから解放され、むしろそこに平安さえも与えられていきます。結果を神に委ねていく心のゆとり、目の前の物事に動揺させられない強さ、そういう信仰と希望と愛は、神の言葉を聞き主の名を呼び祈る礼拝によって与えられるのです。

 目の前のごちゃごちゃとしているものではなく、主なる神を見上げ、今いるところで屈みこむのではなく立ち上がって生きる力、向こう側を見渡す希望が、礼拝を通して与えられていくのです。



 上記のメッセージを講壇の上から語りながら、他の誰でもない、私自身こそこのように歩ませてくださいという、じれったいほどの切なる思いが自分に湧き上がってきました。語る者も聞く者も、共に主の前に出る礼拝でした。

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