4月9日の日曜日は、森下辰衛先生を迎えての特別礼拝でした。午後から講演会を図書館で開くので、少々時間を気にしながらの礼拝でした。森下先生には12時に終わりたい旨を伝えていましたが、終了時間が12:10分と予想の範囲内でした。牧師が講師だと11時45分に終わりたいと伝えておかないと12時15分までに終わることは厳しいでしょうね(笑)
礼拝も講演会も、本当に幸いなひと時となりました♫ (講演会のレポートは、
コチラ!)以下は礼拝メッセージのメモです。
人間は状況に左右されやすいものです。ある会議に出席した時、ほとんど車など通らない道に横断歩道と信号がありました。赤信号を真面目に待っていたら、牧師の集団がそのまま赤信号なのに横断歩道を渡っていきました。1人だけ赤信号を渡らずに踏みとどまっておれるでしょうか。
私は心の中で「普段は講壇の上で、義について、正しさについて、清さについて語っている牧師たちが、法律すらも守れないなんて!もう全員、滅びろ〜」と思っていました(笑)そしてそう思っている私の心の中こそ、滅んでいる状態なのでしょうね。
絶望になってしまいそうな時、そこで一歩踏みとどまって愛することを選ぶこともできるはずなのです。

主イエスの荒野の誘惑。「石をパンに変える」ということは、人の子として生まれた主イエスが、自分の都合によって神になるということでしょう。しかし主イエスは人の子であるということに踏みとどまってくださったのです。
木に吊るされる十字架刑とは、お前の居場所はこの地上にはないということを意味しているように思います。この地に生まれてきたことを呪い呪われる、まさに地獄のような状態でしょう。
その同じ十字架刑に掛かりながら、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」という主イエスの祈りを1人は聞いたのです。何一つ罪を犯さなかった方が、それでも自分をあざけり、ののしり、十字架に掛ける者たちのために、罪の赦しを祈っておられる、主イエスの祈りを聞いたのです。
その時、このキリストの内に私の居場所があると思ったに違いないのです。もうこのまま自分の人生を呪い呪われながら終わるかもしれないそこで、彼は踏みとどまったのです。最後の最後かもしれない、しかしそれでも「主よ、私を思い出してください」と希望をもって祈り続け、「今日、あなたはわたしと共にパラダイスにいるであろう」という主イエスの声を聞くのです。
私たちは1人では踏みとどまれません。しかし十字架の上でなお、愛に踏みとどまってくださった主イエスを見上げていく時、私たちも愛に、希望に踏みとどまる力が与えられていくのです。
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