前日の夜に暴風雪警報の中で2時間の雪かきをしていたのに、2月18日(日)の朝、湿り気のある雪の量に疲れ果て、「もう駄目だ。とても礼拝には間に合わない」と心が折れそうになっていました。しかしドラマは起こるもので、ウルトラマンのように救世主(?)が登場し、何とか15分遅れでの礼拝をスタートすることができました。
午後からのホットドッグ愛餐会なども、楽しく美味しいひと時となりました。また、別の日に報告します。そんな日曜日の朝に分かち合った、礼拝メッセージの断片集です。
(250字のエッセンスは、
コチラ)
このサマリヤで、主イエスは目に見える大きな奇跡を何一つなさっていません。病の癒しがあったわけではありません。特別なしるしを現わしたわけでも、枯れた井戸からものすごい勢いで水が溢れてきたということでもありません。
サマリヤの人々は、ただ主の言葉を聞いたのです。親しく聞いたのです。そして信じたのです。同じヨハネの福音書に「あなたがたは見たから信じたのか、見ないで信じる者は幸いである」とある通りです。信仰とは見て信じるものではなく、主の言葉を自分自身で親しく聞くことから始まっていきます。
様々なところを通られたある方が教会に導かれ、洗礼を受けようと思い、牧師に質問したそうです。「キリスト教の洗礼を受ければ病気は治りますか」と。するとその牧師はあっさりと「なおりません」と言われました。さらにその方は「洗礼を受ければ、良いことばかり起きますか」と尋ねると、牧師は「いや、良いことも、悪いことも起きます」と言われたとのこと。
その方は、牧師のその答えに妙に納得されたとのこと。もしその時、牧師が「病気は治ります」「良いことばかり起きます」と言われたら、洗礼は受けなかったかもしれないとのことでした。そして主イエスの福音を信じて洗礼を受けられました。その結果、病気が治るとか、良いことばかりが起こるということはないまま、自分の周囲は何も変わらなかったそうですが、自分自身が変えられたことが何よりもよく分かったそうです。そして詩篇23篇を愛唱しながら歩まれているとのことです。
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