2019年上半期最後の日、目まぐるしい1日となりました。しかし主の恵みが濃縮されたような1日となりました。嬉しい知らせ、新しい出会い、新たな礼拝などなど。以下は礼拝メッセージの断片集です。

(250字のエッセンスは、
コチラ)
主は確かに、パウロにコリントで危害を加えられないと約束をされています。しかし襲われて危害を加えられることはないけれど、攻撃や反抗がないという約束ではありません。攻撃や反抗もありました。しかしどんな攻撃を受けようとも、宣教できなくなるような致命的な危害を加えられることはないという約束を主はしてくださったのです。
事実、神は総督ガリオを用いてパウロを守りました。代わりに鞭打たれた会堂司ソステネは、やがて主イエスを信じる者になったと言われています(Ⅰコリント1:1)。つまり攻撃や反抗はあったものの、危害は加えられず、むしろ主が良き方向へ導いておられました。
神の御心に立って約束を握って歩んで行く時、上手くいかないこともあります。しかしだからと言って、「神の御心ではなかったんだ」と簡単に諦めてはいけません。私たちの思いを越えて、神が全てを導かれるということを信じ、私たちも体験させていただこうではありませんか。
私たちのしようとしていること、それは相手を生かす愛から出ていることでしょうか。愛とは相手を本当の意味で生かすこと、そして愛こそが神の御心なのです。私たちは何が主の御心かと迷うことがあります。また自分は正しい行動をしていると思い、相手の間違いに苛立つこともあります。しかし何をしようとも、その土台に神を愛し隣人を愛する愛があるかをいつも確認したいのです。愛することこそ神の御心の真ん中なのです。愛を忘れた正義は裁き合いとなり人間関係は砂漠状態になります。私たちが裁判官になって何が正しいかという判決をくだすのではなく、愛することを選択する力を聖霊によって与えられたいのです。
私たちは「いつ」ということをとても気にします。「いつ」が分からないと焦ります。「いつですか?」と問い、「今でしょう」と思わず自らで言いたくなるものです。弟子たちもそうでした。主イエスは「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています」(使徒1:7)と言われました。時は神の権威の中にあります。信仰の本質は、待ち望むことです。神の御心とは、神の時があることを信じて、希望をもって待ち望むことです。
(1日1章 Ⅱ歴7章「
ひれ伏して、感謝して」)
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