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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

自分を主張せずに済む

 8月25日(日)の朝、礼拝堂に向かうと子どもたちに「はい、◯◯君、こんばんは〜!◯◯ちゃんも、こんばんは〜!ショートカットが似合ってるね〜」などと元気よく挨拶すると、「こんばんはじゃなくて、おはようだよ〜」と言われてしまいました・・・。どうしたのでしょう、私(笑)

 前の週は雨が降ったり、前日は雷が鳴るなどした北見地方でしたが、この日は土砂降りの雨が上がった後のさわやかな天気の良い日でした。礼拝では「雲が雨で満ちると」という賛美を歌いましたが、「フリー」にしておけば良かったなあと思いました(笑)

 礼拝後はお弁当愛餐会、そして清里町に向かってオホーツク・ブランチ礼拝に出かけました。車に5人が乗って、行きも帰りも楽しく笑いながら、また心の奥の方がジーンとくるような往復3時間以上の道中でした。もちろん清里町での礼拝も、その後の夕食タイムも幸いなひと時でした。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20190825
(250字のエッセンスは、コチラ

 創世記2章3節で、神が創造の第7日を「聖であるとされた」と言われました。この場合、創造の第七日が汚れていたので、その汚れを聖めたわけではありません。この世界に罪が入り始めるのは、3章になってからで、ここはまだ2章の段階です。罪も汚れもない天地創造の7日目を聖別されたとは、どういう意味でしょうか。それはこの7日目を他の1日目〜6日目までとは、特別なものとして区別された、分離されたということです。

 ここは、聖さの本質を現しています。第7日には「なさっていたすべての創造のわざを休まれた」ました。もちろん、神は天地創造のをされたので、へとへとにお疲れになったから休まれたのではありません。「神のかたち」に造られている人間と共に、「非常によかった」という思いを共有したいという、特別な日を迎えられたということです。命の喜びを祝福として一緒に味わうこと、そういう安息を私たちとご一緒するために、特別に区別してその日を造ってくださったということです。



 ある牧師は、「清いとはどういうことでしょう。それは自分を主張しようとする思いがそこにないことです」と言われました。その通りです、自分を主張せずに済むということは本当に幸いです。私のこの思い、私のこの傷、私の、私のという、そういうことを言わなくても大丈夫なのです。それは、「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」という神の思いで満たされているからです。神との関係の中に、ごちゃごちゃしたものが一切入る必要がありません。それが、人格関係における聖別です。私は神のものとされている、そういう安息があるから、安心して生きていくことができるのです。そしてその結果として、私たちは神の喜ばれないことは選択しないという聖い行いに生きることができます。

 今朝、「聖め」のメッセージだから、「聖く生きなければいけない」、「私のあの部分、この部分、聖めなければいけない」、そういうメッセージと思ったかもしれません。それも大切なメッセージで、きっと私よりもずっと聖いお方であるY先生がそういうメッセージを語ってくださるでしょう。今日はそれ以前のこと、、主は「あなたはわたしのものだ」「あなたはわたしの愛する子だ」「わたしはあなたを喜ぶ」と、あなたを区別し特別なものとしている神のもとで憩いなさい、安息を得なさい、そうやって私たちを招いている、主のものとして、聖なるものとしたいと願っている主を心から賛美しましょう。



 聖められるということは、私たちが良い人になるとか、品格が整えられる以上のことです。聖められる、聖別される目的があります。それは神の奉仕者としてふさわしくされること、主の働きのために用いられていくということです。



(1日1章 ネヘミヤ9章「われわれの罪のゆえに」)

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