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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

死んでもいいわ

 牧師が話す例話って、どこかで聞いたことがあるようなものが時々あります。また牧師自身も分かった上で、同じテーマの内容を話す時に、「以前にもお話したことがありますが」と前置きをして例話や証し(個人的な体験など)を話す時があります。そして時々、「あ、この話し、以前にも◯◯先生が話していた」と思うことがあるものです。

 そういうものの1つに、明治の文豪・二葉亭四迷がロシア語の「I love you」を「死んでもいいわ」と訳したことを紹介する場合があります。私の記憶では少なくとも二名の牧師の説教から聞いたことがあります。また私自身も場所を変えて二度ほど話してきた記憶があります。「愛とはその人のために命を削ること、そういう愛を私たちは主イエスから受けているのです」とつなげています。

 ところで、ロシア語の同時通訳者、またエッセイスト・作家でもある米原万里という方がいました(1950-2006年)。ちなみに私は聖徳太子でもありませんし、一度に二人の方から話しかけられても、どちらかしか分かりません。あるいは結局のところ、どちらも分かっていないこともあります。それゆえに時々テレビで聞く同時通訳者の頭の回転のすごさには、舌を巻くしかありません。

(ちなみに、同時通訳という職業には、「時間のストレスに堪えられる図太い神経系と頑丈な心臓」が必要とのこと。「一般に平時の心拍数は60〜70、重量挙げの選手がバーベルを持ち上げる瞬間、それが140まで上がるといわれているが、同時通訳者は、作業中の10分なら10分、20分なら20分ずーっと心拍数は160を記録し続けるのだから」と米原万里さんは述べておられます・・・。『ガセネッタ・シモネッタ』より)

米原万里「ガセネッタ&シモネッタ」

 その米原万里の『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』という本を、数年前に読んでいた時でした(ちょっとついていけないユーモア表現も含まれている、もう25年近く前に出版された本でした)。その中に上記の二葉亭四迷の「死んでもいいわ」という逸話に触れておられるのを発見しました。そして同じページにこれも私がよく引用することですが、聖書が日本に入ってきた頃、「神の愛」を「神の御大切」と訳されていたと記されていました。「ふむふむ、知ってますよ。私は渡辺和子シスターの本で知りましたよ」と自尊心がくすぐられるような気持ちで読んでおりました。

 そして「死んでもいいわ」と訳した二葉亭四迷のセンスを大いに認め、「字句通りではない訳の、これはすぐれた成功例である。字句から一度身を退(ひ)いて自由になり、より広い視野でもって本来メッセージが伝えんとするところをとらえることがいかに重要か、お分かりいただけると思う」と述べており、「なるほどね〜。聖書の翻訳、いや説教もそういう要素があるよねえ」と思うなどしました。

 ところが、巻末の「編集部注」にこの「死んでもいいわ」が再び登場し、私は寝ながら読んでいたにも関わらず、思わず飛び起きてしまったのです。(続きは明日!)

(1日1章 ネヘミヤ11章「民のつかさたち」)

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