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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

布にくるまれて

昨年のクリスマス礼拝と今年の元旦礼拝で触れたことですが、
私自身が年末年始、心にめぐらしている聖書の出来事です。

「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。
 それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた」ルカ2:6-7

「あなたがたは、布にくるまって
 飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
 これが、あなたがたのためのしるしです」ルカ2:12


妊婦が産着を用意しているのは、もちろん当然のことでしょう。
旅先であったとしても、いつかは産まれるのですから、
マリヤは何か特別なことをしたというわけではありません。

さり気ないとは、意識的にする小さなしぐさのことでしょう。
何気ないとは、無意識的にする小さなしぐさのことでしょう。

産まれてきた子どもを布でくるむ(産着を着せる)ことは、
さり気なくもあり、何気ないともいえる、マリヤの小さな愛の業です。

そのマリヤの母としての小さな愛の業が、マリヤの知らないところで、
羊飼いにとっては救い主を見つけるためのしるしとなったのです(2:12)。

もちろん主役は救い主です。
しかし主の言葉を思い巡らして生きたマリヤの
さり気なくも何気ない小さな愛の業が、救い主をしっかりと指し示すのです。

wrapped

時は進んで、主イエスが十字架にかけられます(ルカ23章)。
十字架の下では、兵士たちが主の衣をくじで分け合っていました(23:34)。
主イエスは全てを父なる神にゆだね、息を引き取られました。

その主イエスのからだの下げ渡しを願ったのが、
他の議員たちの計画や行動には同意していなかった、
アリマタヤのヨセフと呼ばれる人でした。

犯罪人、死刑囚の味方になるということ、
そのからだの下げ渡しを願うということは、
地位あるヨセフの立場を危うくするものでした。

しかし彼は神に従う正しい人で、たとえ少数、1人であったとしても、
危機的な状況の中でも、真理に従って生きるという勇気をもっていたのです。

「イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも
 葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた」ルカ23:53

「しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、
 かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。
 それで、この出来事に驚いて家に帰った」ルカ24:12


ヨセフは、打算のない、また保身もない、真の勇気ある行動を、
ここぞという時に取れる人物で、彼は亜麻布で主イエスを包みました。

そしてその亜麻布こそは、やがてペテロやヨハネが墓に走り寄り、
「亜麻布だけがあった」という主イエスの復活の証拠となっていくのです。

アリマタヤのヨセフ

もちろん注目すべきは、圧倒的に主イエスは死から甦ったという復活です。
そしてその復活の証拠として、
図らずもアリマタヤのヨセフの勇気ある行動が用いられるのです。

「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」
                        Ⅱペテロ3:8


1日はたとえ平凡に見えても、千年分の価値があります。
怠惰に流されることなく、毎日の生活におけるさり気ない、
そして何気ない小さな愛の業が、
救い主がおられることのしるしとなっていきます。マリヤのように。

千年に1度と思われるような自分の人生における大切な時、危機的な時に、
たとえ自分1人であったとしても、ヨセフのように偽らない、
多勢に流れない、ここぞという時に真理に立つ勇気こそが、
主イエスが今も生きておられるという復活を示していきます。

日常時におけるさり気なくも何気ない小さな愛の業、
ここぞという危機的な状況で流されず真理に立つ勇気、
図らずも主イエスを包む布というモチーフの中に見出しました。

主イエスが救い主として誕生したこと、そして死から甦って復活したこと、
それは何ら人の行いが介せない神の偉大な出来事であるにも関わらず、
そこに私という存在が傍観者とされないという恵みに、驚くばかりなのです。

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