FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

われ弱くとも

著者の自伝的な小説で、私も軽度ですが「どもり」ということで
深く共感した『きよしこ』という本を紹介してきました。

尿路結石の時もそうですが、同じ痛みを体験したからこそ、
分かり合えること、「そうそう」と言い合えることがあります。

しかし当然のことなのですが、同じ体験をしていたとしても、
異なる部分というものがあります。
時にそれは決定的に違うことにもなり得ます。

まず「きよしこの夜」の歌詞を勘違いして覚えたことから、
「きよしこ」という友だちのような助け主の存在について。
解説者のあさのあつこさんは、以下のように記しています。

 「きよしこ」は、この後、ぶつりと姿を消すのだ。・・・きよしは1人だ。ただ1人残され、否応なく自分の現実と向かい合う。長い闘いへと一歩、自分の足のみで踏み出していく。・・・・・・

 作者は、きよし自身の辛さを惨めさを寂しさを決して他者に渡さない。他者と分かち合い、きよしの荷を軽くし、晴れやかに笑うことを許さない。自分の闘いは、自分のものでしかないのだ。誰も替わることなどできない。それを骨の髄まで知っている者の、鮮やかな残酷と哲学。人は結局、独りさ、という甘ったるい開き直りとも、この世は生きていくのに値しないという薄っぺらな諦念とも明らかに異質な、肉体も精神も透けていくような孤独を作者はきよしに伝え、きよしは生身で、前進で、それらを受け取った。小学校一年生、まだ6歳。(p.288,289)


そうなんでしょう。自分の抱えている問題にしっかりと向き合い、
他のせいにすることなく、自分の足でしっかりと歩んでいく、
それが正解なのです。誰が何と言おうと、大正解なのです。

しかしたとえ正解を知っていても、
その通りには生きていけるほど人は強くないと思うのです。

主人公きよしと同じように「どもり」の私です。
そしてきよしが、「きよしこ、の夜」と思っていたように、
私も「シュワレをアイス(クリーム)」と勘違いしていました。

しかしきよしに「きよしこ」という良き理解者の友だちは実在しませんが、
私には「主我を愛す」と言える「主」という助け主、救い主がいます。



相変わらずいろいろな自分の弱さがあります。
それでも私が弱くても、主がなおも愛して下さるゆえに、
一つ一つの恐れを主に委ねて歩んでいくことができます。

私の「どもり」の原因は、「恐れ」や「小心」からくるものです。
その証拠に、緊張した時、初めての人と会話する時、
人前で話さなければならない時に、言葉が出にくいのです。

『きよしこ』の中でも触れていますが、
吃音者は息継ぎをどのようにするか、
言葉と息をどのようなタイミングで発するかを考えてしまいます。

そんな時「私は神の息を吹きかけられて生きる者となったのだ」と、
聖書・創世記の出来事を思い出し、聖霊によって深呼吸します。
そして「主が共にいるから大丈夫だ」と一歩踏み出します。

きよしのように「自分の足のみで踏み出して」いけない私ですが、
「シュワレ」が「主-我」となり、主と共に歩んでいます。
それゆえに、いつの間にか少しずつ、どもりが癒されているのも事実です。

PS.
母音が「どもる」ことに、不自由を覚えることが今もあります。
ただ「あなた、あの一言は余分よ」と妻に指摘されることがあり、
少しぐらい話せない方が、人を傷つけないで済むのかもしれません!

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村


日記 |
| ホーム |