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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

手を上げて

1月19日の礼拝メッセージの断片集です。

 出エジプト記16章で何度も出てくる「つぶやき」という言葉は、17章で「争う」「試みる」に変化していきます。つぶやきから良きものは生まれません。つぶやきは、争いに発展します。そしてモーセに石を投げて殺そうとしました。つぶやきは、互いの存在を傷つけ、滅びに向かうのです。

 さらにつぶやきは、主を試みることになります。主を試みるとはどういうことでしょうか。それは、主を否定することです。「主がいるならどうしてこんなことになんるんだ?」、「生きているなら何とかしろ!」ということでしょう。主を試みる時、人が主なる神を上から目線で見下げています。つぶやくことは、主を愛していることと正反対のことなのです。



 モーセはイスラエルの民と一緒につぶやくことをしませんでした。しかしだからと言って、すぐに「感謝します!」と言いませんでした。モーセは大きな声で叫んで、真剣に主の名を呼び、主に祈ったのです。

 聖書は、積極的思考やプラス思考を教えているのではありません。それでは、自己啓発セミナーと変わらなくなります。聖書は、神に向かうことを命じるのです。もちろん感謝を数えられる時には、大いに感謝して下さい。しかしつぶやきが出そうな時、感謝出来ない時、モーセのように私たちは主に向かって祈ろうではありませんか。


20140119

 モーセは手を上げて祈りました。詩篇の作者も手を上げて祈っています。いつもではなくても、しかし時に、信仰の手を上げて私たちは祈るのです。

 私たちはどんな時に手を上げるでしょうか?明日、イオンに行って人ごみの中で手を上げたら、周囲の人は変な目でみるでしょう(笑)どんな時に手を上げるでしょう?横断歩道を渡る時でしょうか?誰かに向かって手を振ることもあるでしょう。つまり、自分の存在を示し、相手に向かって手を上げるのでしょう。

 祈りの時に手を上げるとは、「主よ、私はここにいます」と、主に向かう1つの姿勢なのです。失望してしぶしぶ祈るのでも形式的に祈るのでもなく、全身全霊全力で、信仰をもって主に祈り続ける時、必ず主は主の勝利を与えて下さいます!



 大きく、分かりやすく、祈りを3つに分けることが出来るでしょう。
 1つは「密室の祈り」(マタイ6:5-6、14:23)です。聖なる習慣として持つ「個人の祈り」です。個人的なディボーションの時もここに入るでしょう。

 2つ目は「絶えずの祈り」(エペソ6:18、Ⅰテサ5:17)です。「瞬間の祈り」、「いつでもの祈り」とも言えるでしょう。いつでも、どこででもです。朝起きた時、台所で、食事の前に、運転をする前に、会社に行った時、会議の前に、聖霊が思い出させた時に、その時、その時に祈る、「絶えずの祈り」です。「主よ」と一言でもいい、心を主に向けるのです。
   
 3つ目は「共同体の祈り」(マタイ18:20、使徒の働き)です。心を合わせて祈る時、教会の祈祷会などで聖霊に満たされて祈る時です。



「断片集」と言いながら、けっこう大きな断片、塊(?)ですね。
1/26の礼拝メッセージの断片集は、来週UPします。

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