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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

翻って

1月26日(日)の礼拝メッセージの断片集です。

 理学療法士になるために勉強していた大学生が、人体解剖の実習に行った時の話しをしてくれました。彼は私に「人間の身体は、教科書とはまるで違う。一人一人違う」と教えてくれました。内臓にも人それぞれの個性があり、教科書通りではないということでした。

 検体として自分の身体を奉げた方のことを思いつつ、その青年の思いを計るならば、「この人も神様によって造られた。だからこそ尊い存在なんだ。偶然に生まれてきたわけではない。どんなに大勢の人がいても、人は教科書のようではなく、一人一人違う。神様が命を与えて、神様が生かして下さった人だ。いてもいなくていい存在ではなくて神様が愛して愛してやまない尊い存在だ」、そういう思いを馳せていたのでしょう。



 試練や困難の中にある時は、確かにキリスト者も生きることに疲れを感じることもあります。試練や困難は苦しいものですが、しかし本当の苦しみは、その中で神の愛を見失っていることでしょう。

(神と神の愛から離れて生きていること、これを聖書では罪と呼んでいます。犯罪や道徳的な罪は、罪の結果です。神の愛から離れて生きている時に出てくる罪の結果なのです)

 苦しい試練や困難の中で、主なる神が私を愛していること、そして私たち自身も力の限りを尽くして主を愛していく時、苦しみの大きさよりも、神の愛の大きさの方がどれほど大きいのかを私たちは体験することができるのです。それはロマ書8章に約束されている通りです。

 

20140126

 「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。――神である主の御告げ。――だから、悔い改めて、生きよ。」エゼキエル18:31-32

 「そむきの罪」、神に背くこと、つまり神の愛から離れていく時、「死のうとするのか」とあるように、生きることが嫌になり、死や滅びの方向に向かいます。それは自分も周りの人も大切にできなくなる状態で、愛や命とは反対の方向です。「悔改めて、生きよ」とは口語訳聖書で「翻って生きよ」と訳されている通り、方向転換することです。神の愛に帰るということなのです。



 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と主イエスは十字架の上でイのられました。何をしているのかさえ分からない人々なのに、謝る態度何てそのかけらすらありません。いやむしろ嘲りや憎しみで満ちている人々のために、主は赦しを祈られたのです。

 この祈りは、世界を変える祈りです。私を変える祈りです。あなたを変える祈りです。自分を殺そうとしている人々のために祈るイエス様の姿を思う時に、私たちの中にある「謝ってきたら赦してやろう」という姿勢、「目には目を、歯には歯を」という小さな正義感はひるんでしまいます。



2月2日(日)の礼拝メッセージの断片集も、
今週中にUPします!

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