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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

動機が良くても

今週2月2日の礼拝メッセージの断片集です。

 先週、1つのニュースが世界を駆け巡りました。それは小保方晴子氏という女性研究者が、万能細胞に関する発見をしたということです。インタビューでこんなことを話されていました。

 「やめてやると思った日も、泣き明かした夜も数知れないですが、今日一日、明日一日だけ頑張ろうと思ってやっていたら、5年が過ぎていました」

 科学誌「Nature」から掲載は却下され、審査した研究者からは「細胞生物学の歴史を愚弄している」という趣旨のメールも届いたそうです。どんなに状況が悪くてもあきらめないで、「今日1日を頑張ろう」という姿勢、私は彼女のインタビューを聞きながら、1つの御言葉を思い出しました。

 「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ6章34節)

 私たちも必要以上に明日を思い煩わない。明日は神様の領域としてお委ねしていく。だからと言って何もしないのではありません。「無理だ、仕方がない、環境が、時代が・・・」と言わないで、今日という1日、自分が出来ることを愛を込めて忠実に行う、そういう新しい1週間、新しい2月を過ごそうではありませんか。そのために神の言葉によって生きる力を与えられ、今朝も聖霊に励まされましょう!



 ここで弟子たちはいろいろと気を利かせて、主イエスのためにと思って子どもを追いやろうとしました。しかしそのことが、実は主イエスによって与えられる祝福を子どもたちから奪っていたのです。

 私たちは「そんなことになるとは思わなかった」、「こういう思いで良いと思ってやったのです」と、その動機が良いことをアピールします。動機が良いことは、当然です。「悪いことをしてやろう」と思っていたら、それはよほど悪いことでしょう。普通は良い動機で物事をするのです(欲が隠れている場合もありますが)。

 しかし、どんなに自分の動機が良くても、神の御心からずれていることがある、そして自分が良いと思ってやっていることが、実は他の人の祝福を奪っていることがある、そういう想像力と謙遜を聖霊によって与えられたいのです。



20140202

 以前に「主イエスに叱られたことがありますか?」と問うたことがあります。改めて本気で主イエスに叱られたこと、弟子たちのように主イエスに憤られたことがありますか?これは大切なことなのです。

 どちらかと言えば、私たちは主イエスに褒められたい、そして慰めや励ましの言葉を聞きたいのです。もちろんそれは幸いなことです。しかし同時に主イエスから本気で叱られる、心底、憤りをもって注意されること、実はそれも幸いなことなのです。心は痛み、嫌な思いもするのですが、それでも主から叱られることで、憤られることで伝わってくる主なる神の愛があります。



 何度も確認しますが、「悔改める」とは単に自分の行いを悔いることで終わりません。改める、つまり「方向転換」して主に向かって歩んでいくことになります。

 子どもと親との間には、普通は距離感がありません。3歳や5歳の幼な子が親の顔色を見ている、「今晩の夕食代を幾ら払わなければならないのか」、「いつかこのお礼をしなければならないのか」、そんなことを考えません。幼な子と親との関係の距離感は誰よりも近いはずです。
  
 同じように、神の子どもである私たちは、悔い改めることによって父なる神に向かって方向転換し、その距離感を縮めていく歩みに招かれているのです。



 「神の国を受け入れる」とありますが、この「受け入れる」というのは、簡単なようで、実はとても難しいものです。なぜなら、私たちの罪の性質は、主が与えて下さるものを受け入れるよりも、自分の欲しいものを獲得しようとするからです。アダムとエバは、主がはなはだ素晴らしいと言った世界、エデンの園をそのまま受け入れることが出来ず、自らが欲しいと願った善悪の知識の木の実を食べました。ここに罪の始まりがあります。

 神の国とは、神の支配のことで、全知全能の主が、今、ここに生きて働いておられるということです。「受け入れる」とは、その神の支配を疑わないで主を信頼して信じていくことです。どんな状況であったとしても、しかし全能の神の御手が今ここに伸べられている、ここに主の祝福が注がれていく、そう信じて今、置かれている環境の中で歩んでいくことです。

 神の国とは、今の自分の環境がまるで天国のように、お花畑のようになることではありません。たとえ砂漠であったとしても、荒野であったとしても、ここには全知全能の主がおられ、神の愛が支配している、まだ見えないけれど神の祝福が行き巡っていると父なる神を信頼して生きていく、それが神の子どもとしての歩みです。



断片集なのに、またまた長文になってしまいました。
長過ぎると、心にも記憶に残らないのにね・・・。
あれもこれも、どれもそれもお伝えしたいという牧師の性(さが)です。

次回から日曜日のメッセージの断片集を火曜日にお届けするという、
1週間のペースに入っていけそうです。

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