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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

七転八起

3月2日の礼拝説教の断片集です。
夜のⅡ礼拝で語ったことも含んでいます。

朝のⅠ礼拝も夜のⅡ礼拝も、基本的に同じ説教原稿なのですが、
夜は仕事を終えた方々が集われているので、
テーブルを囲んでのややリラックスした極少人数の礼拝です。

そこで主題や聖書箇所が同じでも、集われる人々が違うので、
30%ぐらい内容がアレンジされるんですね。

 オリンピックでクロスカントリーなどの競技では、先頭に立つ者が風の抵抗を受けるので、様々なかけひきがあります。主イエスはエルサレムに向かう時、先頭に立って歩まれました。エルサレムでは様々な受難が待ち受けていることを語りながら、それらを一心に背負うように弟子たちの、私たちの先頭を主は歩まれます。




 私たちは苦しみって嫌なんです。出来るだけ苦しみを避けたいと思いますし、苦痛の除去を願うものです。当然でしょう。しかし主イエスは、十字架という苦しみをしっかりと背負われ、逃げ出さなかったことを忘れてはいけません。裏切られても、あざけられても、鞭打たれても、しっかりと十字架を背負われました。

 もちろん取り去られるべき苦しみや痛みもありますが、私たちは無菌室に生きているわけではありません。困難や苦しみを背負いつつ、主からの使命を果たし主の勝利を体験する道を主が開かれました。

 そういう中でもし私たちが信頼していた人から裏切られる時、「あなたが悪い」と不当な批判や誤解を受ける時、また人の前で馬鹿にされるようなことがある時、その時、十字架の主イエスは誰よりも私たちのすぐそばにおられます。そしてそういう苦しみや困難に負けてしまわないように、背負うべきものをしっかりと背負って生きて生けるように、私たちの先頭を主は歩いておられます。


20140302

 ある方から「傷つけないことと同時に、傷つかないことも大切だ」と教えられました。「傷ついている人は、必ず人を傷つける」とも。それは本当だなぁと思います。

 私は「傷ついた」という言葉を使わないようにしています。「それを言ったら負けだ」と自分に言い聞かせています。(もし私の口から聞いたら、優しく指摘して下さい)「傷ついた」という言葉は、少し卑怯な言葉にもなりかねないからです。言わば「言った者勝ち」の言葉になります。その時点で自分は被害者の立場を陣取り、自分自身を絶対正義にしてしまいます。「傷つけたあの人が悪い」と誰かのせいにしながら、自らを省みることなく他者批判や自己憐憫に陥り、不平や不満を言いながら歩んでいく道を造ってしまうからです。被害者という加害者にさえなってしまいます。それが主イエスを信じる者の歩みではないはずです。そういう歩みをするために、私たちは主イエスを信じているのではないはずです。

 もっと聖書を本気で読みたいのです。主イエスを信じた信仰の先輩者たちは、「傷ついた」という世界に縛られていません。むしろ本気で主の愛に生きるならば、傷つくのは当然だという強さを聖霊によって与えられていました(例えば使徒5:40-42)。十字架と復活に向かって行かれた主イエスの姿、そして聖霊を受けて変えられた弟子たちの姿を私たちのスタンダードにしたいのです。

 もちろん不当な苦しみ、不条理な出来事、大きな悲しみの中で、立ち直れないような思いをすることもあります。だからこそ、そういう時こそ、「主の打たれた傷によって癒されたり」と十字架の主をご一緒に見上げていこうではありませんか。自分の痛みや傷にこだわるのではなく、主の打たれた傷によって癒されていくことにこだわろうではありませんか。



 筋力の病気、難病の辛さというものを、私たちはTさんを通してその一端を知り、主の癒しを祈っています。そして同時にTさんを見る時に、筋力が弱っているのに、病に負けてしまうことなく、心の筋力は弱っていないなぁということを目の当たりにしています。

 翻って「信仰の筋力が弱っていないだろうか?」と省みます。「主を待ち望む者は、新しい力を得る」と何度も聖書は約束しています。「七転八倒」ではありません。「七転八起」でしょう。「神に従う人は七度倒れても起き上がる」(箴言24:16)とある通りです。

 弱さの中で言い訳を始めることなく、痛みの中で我がままになることなく、苦しみや痛みから逃げないで、そこから立ち上がらせて下さる復活の主が私たちの先頭を歩まれます。その主イエスに従って歩んでいく時、起き上る力、立ち上がる力が与えられていくことをご一緒に体験しようではありませんか。



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