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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

ドルカス

今週の主日礼拝説教の断片集です。

 「愛」と「愛情」の違いは何でしょうか? 愛は神様から与えられるもので、愛情は人間の内側からという大きな違いがあると定義することができます。しかし外面的には、誰かのために何かをするその行為は、主の愛に基づくものなのか、自分の愛情(肉の思い)によるものか、見た目には分からないものです。

 それでは、両者の違いはどこで分かるのでしょうか。それはその愛が通じなかった時に、よく分かります。自分の思いから、つまり愛情が土台なら、それが通じなかった時、あるいは裏切られた時、「自分はあれだけしてやったのに」となります。「感謝も無い」、「恩を仇で返された」と言い、嫌になり、失望し、イライラ感が募ってきます。

 一方、主の愛を土台として仕えていく時も、それが通じないことがあります。主イエスの愛でさえ、人々に通じなかったのです。しかし、たとえ通じなかったとしても、「主よ、悲しいです。あなたもこのように悲しまれたのですね。しかし継続しない愛は愛ではありません。どのように愛して仕えていけば良いでしょうか?愛する力を与えて下さい」と、どこまでも主に向かっていく、それは愛だと言えるでしょう。



20140309

 仕えるとは、与えることです。大切なことは、どれだけのものをgetしたか、takeしたかということではなく、どれだけ愛を込めてgiveしていくかということでしょう。三浦綾子さんの『続氷点』に、次のような言葉が記されています。

 「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなくて、われわれが与えたものである。」

 「あくせくして集めた金や財産は、誰の心にも残らない。しかしかくれた施し、真実な忠告、あたたかい励ましの言葉などは、いつまでも残るのだ。」



 使徒9章に、タビタ(ドルカス)という婦人のことが記されています。ドルカスは、多くの良いわざと施しをしていました。身寄りのない人々のために、洋服を作っていたのです。自分は大きなことは出来ない、しかしこれならできると、一針、一針、心を込めて祈りつつ、愛を込めて上着や下着を作って貧しい人々に分け与えていました。

 そのドルカスが病気で亡くなると、多くの人々がやって来て、泣きながらドルカスが作ってくれた下着や上着の数々を見せるのです。1枚や2枚ではありません。生涯かけて、地味な作業ですが、隣人のためにドルカスがしたことです。ドルカスは、何か大きな事業をしたわけではなく、自分の出来ることで人々に仕えました。

 私たちがこの世を去る時に意味を持つのは、自分のためにしたことではなく、主のために、隣人のために、信仰と希望と愛を持ってしたこと、与えたこと、これが私たちの残すべきものであり、同時に天国につながっていくものです。キリストの教会とは、こういうドルカスのような人々が連なっている、そういう2千年の歴史を歩んできましたし、私たちもそこに連なっていくのです。



ドルカス

 福音書には、弟子たちの失敗、愚かな会話、大口をたたくこと、そして裏切ることなどが記されています。もし私が弟子だったら、「この記事を削除したい」、「ここはこう書き換えて欲しい」、「こういう説明文を入れておいて」と、編集者のように言うでしょう。恥ずかしいからです。穴があったら、入りたい失敗談だからです。「あ”~」と叫びたくなります。

 しかし弟子たちは違いました。彼らの生きている時代にこの福音書が書かれ、彼らは教会のリーダーとなっていき、そして教会でこの福音書が朗読されたのです。それでも弟子たちは、右大臣に左大臣にと言い、仕えられなかった自分たちの失敗が載っているこの福音書を喜んだはずです。「かつては自分のことだけにとらわれていたなぁ。でもこんな者を主イエスが変えて下さった。諦めないで何度も何度も仕えることを教えてくれた」、そうやって成長させて下さる主を喜んだに違いないと思うのです。聖霊の力は人を変えるという確信を持って、あなたも変えられる、私たちもかつてはそうだったんだと、多くの人を励ましたはずなのです。

 仕えることに失敗ばかりする私たちかも知れません。しかしそれでも今朝、主は弟子たちを諦めなかったように、私たちを諦めません。そして弟子たちと同じように、私たちも聖霊によって成長させていただけるのです。



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