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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

イチジク

礼拝メッセージの断片集です。
今回はマルコ11:12-25から、「祈りの家」という主題です。

 北海道の北見に来て気づいたことの1つは、イチジクの木と柿の木がないことです(私の苦手な牡蠣はありますが!)。イチジクは夏、柿は秋と、どちらも季節感のある果物です。食べものは旬が美味しいものです。
 
 イスラエルでは普通、イチジクは6月に実がなるそうです。この出来事は、まだ4月ぐらいだったので、実りの季節でもないのに、実りを求められたら、イチジクの方が困ってしまいます。そのために呪われるとは、何とも理屈に合わないですし、「そりゃないよ、イエス様」と思ってしまうものです。

 しかし何もここで主イエスは、何が何でもイチジクを食べたいと駄々をこねているわけではありません。この後の宮きよめの出来事と含めて、弟子たちに信仰の祈りについて教えているのです。

 桜は4月の春に咲くものですが、昔から猛暑のために葉が枯れて冬と勘違いして、秋に桜が咲くことがあります。これを「花の狂い咲き」と呼ぶようです。自然現象でも季節外れに花や実がなるということはあります。

 ましてや私たちは、全知全能の主を信じています。自分の頭の中で考えて「それは無理だ」、「まだ早い」、「今ではない」、「仕方がない」と思うことがらがあったとしても、季節を越え、人知を越えて働いて下さる主イエスを信じているのです。マルコ福音書での主イエスの第一声は「時は満ちた。神の国が近づいた」です。私たちの時ではなく、神の時、救いの時、栄光の時を私たちは生きるように、主イエスがその道を開かれました。

 主イエスが宮清めをしたのは、このままだったら、このイチジクの木のように枯れてしまう。「あの人がどう、この人がこうだ、時代が、会社が、無理だ、どうせ、今はその時じゃない」・・・、自己憐憫をし、周りのせいにしながら生きていると、そのままでは根腐れの人生、呪われた人生となってしまいます。私たちは主の宮です。信仰の祈りの声が満ちるならば、そこに実りがあらわされていくのです。季節を超えて、真冬だと思っていたところに、たわわな実を結ぶことができるのです。神を疑わないで、信じて祈るところに、主の実りが必ずあるのです。


20140413

 イチジクの葉と聞いて、私たちが聖書から思い起こすものがありますね。それは創世記3章7節、罪を犯した人間が自分の裸、恥ずかしさを隠すために使ったもの、それがイチジクの葉でした。私たちは自分の惨めさ、弱さ、罪をイチジクの葉で隠そうとします。自分の罪を隠して誰かを批判し、劣等感を隠すための自己アピールや他者批判、真実に自分と向き合うことを避けて自己憐憫の中に埋没すること、立派なことを言いながら実は自分の欲望を隠している・・・、そのようにイチジクの葉で自らの弱さや罪を隠してしまいます。

 イチジクの葉で、自らが虚勢を飾っても、それはやがって腐ってしまい、悪臭が漂うようになっていまいます。大切なことは、主なる神がアダムとエバに着せて下さった皮の衣を着ることです。主なる神が皮を用いられたということは、動物が犠牲になっているということです。つまり、私たちの罪のために十字架で血を流されて犠牲となられた主イエスを着ることが大切なのです。その時、私たちは愛と赦しに生きることができるのです。

 主が呪われたと言われた、実のならないイチジクの木が枯れました。このイチジクの木は、主イエスの十字架をも象徴しています。主イエスは人々から呪われ、また私たちが受けるべき神の呪いを受け、十字架にかかって死なれたのです。私たちの人生が呪われたものとならないように、恨みつらみではなく、愛と赦しに立ち続けることができるように、根腐れしないように、主イエスが全てを背負って十字架に掛かられたのです。この受難週、十字架の主を一心に見上げていこうではありませんか。

 ルカ13章では、ブドウ園の園丁が、3年間も実のならないイチジクの木を切り倒すように言いますが、番人は自分が肥料やり、育てるので待って欲しいと言います。何年も、何十年もクリスチャン生活を通して、立派な実を結ぶことの出来ない私に、諦めないで「待って下さい」ととりなして下さる主イエスの祈りが今日も捧げられているのです。 

 ルカ19章で、イチジク桑の木に登るザアカイに声をかけられ、その名前を呼ばれ、罪から解放されて救いの喜びの道を開かれた主イエスは、今日も私たち一人一人の名前を呼んでおられるのです。そして実を結ぶ人生へと導いておられるのです。


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