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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

火曜日のblog

4月27日の礼拝メッセージの断片集です。
月末ということで昨年からの続き「十戒」を分かち合いました。

「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」(出エ20:16)、
第9の戒めからです。

 日本人は、自分の言葉が真実でなければならないことについて鈍いところがあります。例えば、「世間をお騒がせして申し訳ありません」と責任者たちが謝るその言葉にも表れています。何が申し訳なかったのか。自分が行ったことが悪かったということ以上に、世間を騒がせたことに対して申し訳ないという比重があるようです。つまるところ、それは世間を騒がせなければ良い、「ばれなければ良い」ということにつながっていきます。

 以前アメリカの現職大統領がスキャンダルの騒ぎになった時、アメリカ国民の関心と日本の国民の関心とは大きく違いました。日本では、現職の大統領がスキャンダルを起こしたことに焦点があてられていました。もちろんアメリカの場合も、スキャンダルは良しとはしません。しかしスキャンダル以上に、そのことについて大統領が偽証したこと、さらに大統領の権限を利用し偽証するようにと指示したことに、アメリカ国民は注目したのです。

 自分たちの国の大統領、もちろん間違いを犯すことがあるかもしれない。その場合は間違いを間違いと認めて、心から謝罪する必要がある、当然、取るべき責任を取ることを求めます。しかしアメリカ国民が大統領として相応しくないと弾劾したのは、スキャンダルな行為以上に、そのことについて偽りを述べ、権力を用いて偽りを指示したことです。そのような偽証する人物は、大統領としては信頼に値しない、そういう見方なのです。偽証罪に対する感覚は、日本人よりもはるかに敏感なのです。



 私たちは「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられてきました。聖書を読む時「嘘つきはサタンの始まり」だと教えられるのです。サタンは初めから、そしていつも嘘、偽りを用い、巧みに人をだまします。嘘・偽りは、真実の神から離れていくことになります。



あるキリスト者は、次の言葉をモットーにされています。

「あることをないかのようにではなく、
 ないことをあるかのようにではなく」


事実に対して切り貼りしない、何も足さない、何も引かない。
そこに大きな誘惑が潜んでいることを知っておられるのでしょう。
また事実を曲げることは、真実な神を裏切ることになるからでしょう。



20140427

 自己弁護と嘘・偽りは、結びつきやすいものです。自分を弁護するあまり、針小棒大に小さなことを大きく言ってみたり、事実を少し曲げて語るときもあるでしょう(アロンやサウル)。嘘ではなかったとしても、自分にとって都合の悪いことは言わないこともあります。自分を飾ることも偽り、虚飾です。自分を本当の意味で弁護して下さる方を信頼していない時、私たちは自分で自分を弁護しようとし、そこに偽りや嘘を混ぜてしまいやすいものです。

 それは主イエスの生き方とは反対です。主イエスに対してどんなに不利な証言、しかも偽証がなされていても、ピラトが不思議に思うほどに、主イエスは黙っておられました。真理に立つ者には、真実な神に全てを委ねているゆえに、真の平安が与えられていくのです。偽り、誤魔化す時、目が泳ぎ、感情が落ち着かず、焦りが見え始めるでしょう。

 牧師をだますことなんて、簡単です(笑)私なんかすぐに何でも信じますよ。でもね、人間をだませても、人間にばれなくても、真実な神をだますことは出来ません。それはとても恐ろしいことなのです。



 自己憐憫も偽りです。人に対して、どんなに自分が不憫な状態にあるのか、少し大袈裟に言って相手の同情を買おうとする、話しを盛る、世界で一番不幸な者のようになってしまいます。しかしそれは偽りです。神の恵みが注がれない日は、1日もありません。どんな1日であったとしても、主の恵みは注がれています。しかしまるでそれがないかのように、恵みを数えずに不憫さばかりを数えていることは、真実な恵みの神に対して偽ることになります。

 人間は自分の不憫さにしがみついてしまうことがあります。自分の罪には目を留めずに、自分がどんなに不憫かを訴えていく、そこに偽りがあります。ある方は毎朝「今日も自己憐憫の罪から私を守ってください」という祈りを捧げています。私はとても正直な祈りだと思います。



池上彰

 29節「悪い言葉をいっさい口から出してはいけません」とあります。嘘・偽りだけではなく、悪い言葉も指摘されています。私たちは自分が日々語っている言葉をもう一度吟味する必要がありますね。

 池上彰さんは、現実的な線引きとして「悪口は面と向かって言えるレベルで」と言われています。本人がいないところで言う悪口は陰口だから、陰口は言わないと決めているそうです。悪口は、本人のいないところでは言わないよということですね。これで最低限の品位は保てるし、「この人は陰口は言わない」ということで信頼関係も築けるのではないかということです。本人のいないところで悪口で盛り上がる、またインターネットに誹謗・中傷を書き込むという陰湿な社会の側面を見る時に、確かに現実的な線引きだと思いますね。



 「むしろ、愛をもって真理を語り、」と同じエペソ書に記されています。ぜひ思い出して欲しいのです。今まで、どんな言葉をかけられた時、あなたは嬉しかったでしょうか? あなたを励ました言葉、勇気づけた言葉、立ち上がらせた言葉、きつかったけれども目が開かれた言葉、いろいろあるでしょう。嫌な言葉が記憶に残りやすいものですが、嬉しかった言葉を思い出してみてください。その言葉(文言)自体がとても素晴らしい表現だったということ以上に、語り手の愛と真実がその言葉の背景にあったからこそ、私たちはその人のその言葉によって励まされたのではないでしょうか。

 嘘・偽り、誤魔化しの言葉は、人と人との関係を破壊します。しかし不真実な私たちに真実の限りを尽くして下さる父なる神に祈りつつ、真理の道を歩まれた主イエスを見上げ、内におられる真理の御霊に励まされながら、私たちの愛の言葉を、真実の言葉を、励ましの言葉を語る者とならせていただこうではありませんか。



長い断片集になっていますね。
先日、間接的に「火曜日のblogを楽しみにしています」と伝え聞きました。

こんな長いblog、しかも礼拝メッセージの断片集を、
果たして読んでいる人がいるのかなぁと思っていましたが、
1人の方に届いていることを知り、とっても嬉しくなりました。

それがまた間接的にというところが嬉しいものですね。
あ、直接的も歓迎ですが!(笑)

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