FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

満ち足りて

雪の季節が終わってからは、日曜日の朝になると、
「雨が降ったら良いのになぁ」と少し思います。

なぜなら雨が降ると、農作業に従事されているMさん一家が、
礼拝に来やすくなるからです。

今週の日曜日は肌寒い曇りでした。
Mさん一家はビートの作業をされていたことと思います。
今週の1日1日も、主が支えて下さいますように。

さて礼拝メッセージの断片集です。
昨年の7月から続けてきた月末の「十戒」シリーズの最後です。

 私たちの社会には、様々な製品が溢れています。もちろん必要なもの、便利なものもあります。しかし必要以上のもの、不必要なもの、購買意欲を駆り立てて買わせることが目的のもの、誰かが持っている物を羨んでいる、次から次へと買い替えるということになれば、それは「むさぼり」ということにつながっていきます。むさぼりは、必要以上に欲しいと思う心、あるいは主なる神以上に求めている心と言えるでしょう。生きていく上で本当に大切なものなのか、私たちの人生を本当に豊かにするのか、神を見失わせてはいないだろうか、そういうことを弁える必要があるでしょう。



 私たちは、何を求めているのでしょうか。確かに癒しを求めます。しかし癒しではなく癒し主を求める、これが信仰の勘所ではないでしょうか。確かに問題が解決されることを願います。しかし問題を解決して下さる主なる神を求め、主ご自身が栄光を現して下さることを求めることが大切でしょう。主なる神に何かを注文して、その注文したものばかりに心を奪われ、主と交わること、主に感謝を捧げることを忘れているとしたら、それは偶像礼拝です。要求だけをして、主を愛さないで、主なる神ご自身を求めないで、注文したものだけを求めているとしたなら、それは本当の意味で神を信じていないということになります。信仰関係とは、信頼関係です。いのちの関係です。

 私たちは主なる神から何かを頂きたい、しかも自分の願っているものを頂きたいのですが、しかし大切なことは、主と共に生きていくことです。主と交わり、主の思いを知っていく時、私たちは本当の意味で満たされた歩みとなっていくのです。



20140525
(約250字のメッセージのエッセンスは、コチラ

 主なる神から与えられているものに不平を言い、隣の人の境遇をねたんでいませんか。それがむさぼりです。また主がして下さったことへの感謝はなく、主がして下さらないことへの不満を言っていませんか。そういう不満、ねたみ、むさぼりは、自分を惨めにしていきます。創世記に出てくるカインにあったものもねたみでしょう。ねたみは、命を滅ぼします。



 私たちの偉大な神は、私たちにとってのマイナスと思われるものを取り除き、少しはましなものを増し加えるという方法で私たちを助けて下さるのではありません。どのような状況にあっても、喜びと感謝と希望をもって生きることができる、そういう本物の力を、主イエスを通して与えて下さることによって、私たちを強くするのです。何があっても無くても、それでも奪われない救いの喜び、感謝できる心、嫌にならない希望の心、そういう本物の力を聖霊によって与え続けたい、それが主の思いです。



 教会付属のある幼稚園では、十戒を教えて園児に暗唱させているようです。驚きました。「幼稚園児にはちょっと早いのでは・・・」と思いつつ、その意図を牧師にお尋ねしました。その牧師は「十戒を教え始めて、園児は何が罪なのかということ、そしてそれは神様が喜ばれないこと、罪は人を傷つけるということが少しずつ分かるようになってきた」と話されました。

 お兄ちゃんやお姉ちゃんがお母さんの財布からお金を盗ろうとする時、あるいは一緒に誘われる時、「盗んではならない」という十戒の8番目の言葉を思い出して、「それは泥棒だよ。お母さんは見ていないけど、神様が見てるよ。そしてお母さんが悲しむよ」と言ったそうです。お母さんがお父さんとは違う親密な男の人を家に呼んできた時、「お母さん、それはかんいんだよ、ふりんだよ。お父さんもお母さんも、ぼくも傷つくことになるんだよ」と言ってブレーキをかけたそうです。

 十戒を教え、暗唱し始めてから、園児の生活の中で様々な変化があったようです。「十戒、十の戒め、規則、命令、あれをしてはダメ、これもしてはいけない」そういうものは、私たちの自由を束縛し、窮屈にしていくように感じるかもしれません。しかし十戒が私たちの生活を縛るのではなく、十戒から離れた罪が私たちを欲望や悪に縛りつけていきます。十戒は、愛の言葉、命の言葉ですから、罪から私たちを解放し、本当の意味で自由に生きることができるのです。



涙とともに

この日の聖書朗読は、詩篇126篇でした。
そこで懐かしい賛美を皆さんと一緒に捧げました。

ただ涙を流し続ける者が、
やがて喜びの声に変えられるというわけではありません。

涙を流しつつも、希望の種、福音の種、愛の種をまき続ける者こそが、
主によって喜びの声を上げる刈り取りが与えられていきます。
そういう思いを込めて共に賛美しました♪

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村

礼拝メッセージの断片集 |
| ホーム |