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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

その朝

礼拝メッセージ(Ⅱ礼拝を含む)の断片集です。
今週は、メッセージ前の一コマも含んでいます。

 2階から1階に降りてきて、「何をしに1階に降りてきたのだろうか?」と考え込み、思い出せないままに2階へ戻って行くことがあります。そんな40代前半を過ごしています。

 先月の礼拝の中で、84歳になられたI兄の誕生祝福の祈りを忘れてしまいました。早速Iさんに電話をして誕生日のお祝いと謝意を述べ、「来週はギデオンの働きで他教会に行かれるので、再来週の礼拝の中でお祈りさせていただきます」とお伝えしました。そして先週、再び忘れてしまいました・・・。今日は忘れないように、メッセージを語る前にお祈りします。Ⅰ兄、どうぞ前の方に・・・。

 祈り「・・・・申し訳ない程に、人は様々なことを忘れてしまいます。しかし主なる神は、84年もの間、ただのひと時をもI兄をお忘れになることなく、主の愛の御心にとめて下さっていました・・・」


本当に申し訳ない思いでいっぱいだったのですが、
優しい笑顔で全てを包み込まれるI兄のお顔を拝見しながら、
そういう歳の重ね方をしていきたいなぁと思わずにはおれませんでした。

happy birthday

 何かの出来事について、自分の視点だけから思い込みをしていることが、とても多いものです。自分が体験したからと言って、それが物事の全てはありません。インド発祥の寓話に「群盲象を評す」という言葉がありますが、自分の触っている部分は象の一部であって、全体ではないのと同じです。
 
 子どもと大人の違いの1つ、あるいは人が成長するということは、どれだけ多面的に物事を見れるかということでしょう。これは想像力と隣人への愛に大きく関わってきます。こと信仰に関すること、主の働きに関することは、一面的になってはいけません。天が地よりも高いように、神の思いと私たちの思いは、大きく違うものだと心得ることこそ謙遜でしょう。自分の体験を絶対化することなく、「主のために」と私たちが思ってすることすらも、実は主なる神との思いと大きく異なっていることが多いものです。主なる神と私たちの思いのギャップを埋めるもの、思い違いを直すもの、それが神の言葉である聖書なのです。



 復活について、思い違いをしていないでしょうか。復活というのは、盲信者がつくりあげたユートピアではありません。また「早く天国へ行きたい」という現実逃避でもありません。真に復活の希望に生きる者は、やがて主にまみゆるその朝があるからこそ、欲望に支配されることなく、1日1日をどんな状況の中でも忠実に、誠実に、投げ出さないで愛をもって生きていく力が与えられていくのです。

 やがて復活がある、主とまみゆる朝がある、その朝がくる、完全な喜びと感謝にあふれる朝がきます。流してきた涙が、完全に報われる朝があるのです。だからこそ、私たちは今日も、今週も、今月も、忠実に歩んでいけるのです。その朝があるから、私たちは労していることが無駄にはならないから、自分のしてきたことが誰に認められなくても、たとえ誰に感謝されなくても、人が見ていても見ていなくても、主が見ておられるから、そして「忠実な僕よ、よくやった」と言って下さるその朝があるから、そういう復活の希望を持って歩む時に、私たちはそれでも動かされないで歩んでいけるのです。(Ⅰコリント15:58)



20140601

 復活の時、人はめとったり、とついだりしないと、主イエスは言われました。皆さんは、このことをどう思われますか? 「えー、天国に行っても、私は今の夫と、あるいは今の妻と一緒に夫婦でいたい。もしそうじゃないなら嫌だ」、愛妻家の方はそう言われるかもしれません。それはそれで感謝なことなのですが、しかし思い違いがあるのも事実です。あるいは反対に、「天国に行ったらあの人と夫婦ではなくなる、はぁ、せいせいするわ・・・」、そんなことを思っているとしたら、それも思い違いがあります。夫婦の関係は、キリストと教会(私たち)の関係と例えられるぐらい、主なる神が重んじておられる愛の関係なのですから。

 復活の時、また天の御国では、主なる神が素晴らしい関係、いのちの関係を用意しておられるます。最高のものを準備しています。それは人間の絆を超越して神との絆が中心となっていきます。天の御国とは、私たちの思いがかなえられるというよりも、完全な主の愛の思いが満ちあふれていく所なのですから、私たちの思いを押し付けるような思い違いをしてはいけないのでしょう。詳細は分かりませんが、死もなく涙もなく痛みもなく夜もない、主の栄光と喜びと感謝が満ちあふれていると主が約束して下さっているなら、私たちはその主の思いを信じて、信頼して、委ねて任せていくことが大切なのです。



 「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と丁寧に主イエスは語っておられます。アブラハムを助け、支え、祝福した神が、同じように私たちの神なのです。今も生きておられる神は、今を生きる私たちにも、アブラハムと同じように神の力を現して下さるのです。イサクの祈りに答え、敵に負けず井戸を掘り続ける力を与えたイサクの神は、私たちの神です。今も生きておられる神は、今を生きる私たちにも、イサクに与えた敵や困難に負けない力、投げ出さない力を今週も与えて下さるのです。偏屈で心が曲がっているように思えるヤコブをイスラエルとしたヤコブの神は、私たちの神です。今も生きておられる神は、今を生きる私たちのヤコブのような心を変え、イスラエルの祝福として下さいます。

 信仰は昔話ではありませんし、神の力は聖書という本の中だけ、2000年前、3000年前だけに閉じ込められません。主に心を合わせる者に、神の言葉を信じ、従う者に、現在も驚くべき力を表して下さるのです。



 情報が氾濫している時代に生きています。しかし本当に聞くべきお方の声を聞いているでしょうか。神の言葉は、あなたを導き、励まし、いやし、救います。現代社会に、また私たち自身にどれだけの問題があったとしても、神の言葉は、私たちの日常生活の中で大きな力となって実現していくのです。ペテロのように「主のお言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と私たちも主の言葉に従い、私たちの思いも過去の体験も超越していく神の力ある御業を見せていただこうじゃありませんか。



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