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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

罪人のかしら② 【No.138】

神学校で教えておられたある先生が、
「この人は私よりも罪深いと思ったその瞬間、
その人は世界一の罪人になる」と語られたことがありました。
忘れ得ぬ言葉の1つです。

パウロの「罪人のかしら」という表現は、
誰かと比較して「自分が世界一の罪人だ」ということではないと思います。
「罪人のかしら」という言葉は、相対的な表現なのですが、
実感としては絶対的なものだと思います。

藤木正三先生は、以下のようなことを言われています。
(正確な言葉ではありません)
 
  人の罪だけを見ている時、その人を裁いている。
  その人の前に立っている。
 
  自分にも同じ罪があると思うに至った時、反省している。
  その人は、自分の前に立っている。
 
  人の罪よりも自分の罪の方が大きいと思うに至った時、罪そのものを見ている。
  その人は神の前に立っている。
  神の前とは、自分の罪が人の罪より必ず大きく見えるところですから。

自分の立ち位置が1つの問題になっています。
どこに立つかで、何を見つめてるのかが分かります。

洗足

誰か他の人の罪だけを見て、その人を批判して、裁いているなら、
それはその人の前に立っています。
自分のことはさておいて、その人の悪いところしか見えていないのでしょう。

自分にも同じ罪がある、同じ状況・境遇に立たされたらそうしているかもしれない、
そうやって自らを省み、反省する時、自分の前に立って、自分を見つめています。
ある意味、客観的に自分を見つめることが出来る人でしょう。
倫理や道徳は、そういうことを教えているのかもしれません。

神を信じる者は、神の前に立ちます。
神の前に立つ時、人の罪よりも自分の罪の方が大きく見えるのです。
それは単に人と比較してどうのこうのではなく、
神の前に立つ時、人は罪人なんだ、自分は小さい者だ、赦されなければならない者だ、
そういう罪の本質が神の前に立つ時、初めて分かるということなのでしょう。

「罪人のかしら」というのは、比較の問題ではないのでしょう。
神の前に立っている者の、偽らざる実感なのかもしれません。

そして「罪人のかしら」と思えば思うほどに、
神の前にいよいよと恵みを感ぜずにはおれなくなってくるのでしょう。



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