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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

選びの根拠

8月最初の礼拝で、聖餐式の恵みに与りました。
夜のⅡ礼拝では、10年以上ぶりに私たちの教会の礼拝に出席された、
一組の家族がおられました!私は初めてお会いしました。

そして来週は、これまた10年以上ぶりに礼拝に
出席される方々がおられます。嬉しいですね。楽しみです。

 「立ってはならない所に立っている」そういう歩みに、私自身がなっていないでしょうか。「あなたは、どこに立っているのか?」、「本当に神の前に立って歩んでいるのか?」、「神以外に立ってはならない所に立っていないか、つまり自分が神となって歩んでいないか?」、そういう問いかけを自分自身にする必要があります。



 私たちが神の前に立って歩み続ける時、私たちは本当の意味で、神に造られた人として歩んでいくことができます。アブラハムは、ソドムの街やロトのことを知った時に、自業自得だと断罪しませんでした。むしろ神の前に立ち、愛を持ってとりなして祈りました。人は主の前に立つ時、荒らす憎むべき者ではなく、平安と愛を持つ者に変えられていくのです。



 IOCのロゲ会長が、「トーキョー」とプラカードを裏返した時、その場にいた日本人、生中継を見ていた東京の人々は、大きな喜びの声を挙げました。もしあのプラカードに、私たちの名前が書かれていたら、そして全世界に放送されていたら驚きです。オリンピックの開催都市が選ばれるのに、私たちの名前が呼ばれるなんてあり得ませんね(笑) 

 しかしあり得ないことに、大きく驚いて喜んでも良いことに、主なる神が私たちの名を呼んで、私たちを選んで下さっているということです。今日も主は、私たちの名を呼んでおられるのです。ロゲ会長よりも(!)愛を込めて、今朝、主の前に立って礼拝を捧げている皆さん一人一人の名前を呼んでおられるのです。



20140803

 どうして私たちが選ばれたのでしょうか。それは私たちが素晴らしくて、良いところがいっぱいあって、いろいろなことができるから・・・と言いたいところですが実はそうではありません。ゴメンナサイ(笑) 選びの根拠は、私たちにはありません。
 
 もし私たちが素晴らしいから選ばれたのでしたら、失敗したり、駄目になったら、主なる神は私たちを見捨てることになります。それではこの世の選抜、生存競争と一緒です。役に立たなくなると切り捨てられることになります。しかし信仰において、選びの根拠は主なる神にあるのです。いつまでも変わらない永遠の愛の神がその愛のゆえに私たちを選ばれたのです。真実な神は、神ご自身の方から約束を反故になされることはなさいません。主なる神が私たちを選んで下さったからこそ、選びは変わらないのです。



 私たちは、自分で選択したことがらは自分で責任を取る、それが大人というものでしょう。しかし自分で選べなかったことがらがあります。出自、両親、子ども、兄弟、時代、国や地域、性別などなど。そういう自分が選べないことがらは、主なる神が私たちのために選んで下さっているのであって、そこには神の特別な思いがあるということです。
 この選びを確信しながら歩んでいく時、不可抗力な事態に巻き込まれても、理不尽な環境に置かれたとして、不条理な歩みを強いられたとしても、そこに主の選びがある、主の計画がある、主の意志があると信じ、運命や宿命をのろうことなく、主に信頼しながら歩んでいくことができるのです。



 時々、「あの日あの時、あの人に、あんなことを言われた、絶対忘れない・・・」そういう声を聞きます。あるいは、誰しもそういうものを幾つか抱えながら生きているものでしょう。しかしそれではあまりにも苦しいし、痛いのです。私たちが思い起こすべき言葉は、主イエスの言葉でありたいのです。主は前もって語って下さっています。たくさんの情報、多くの人々の意見、それも必要かもしれません。しかし「主は何と言われているのか」と、人格的に主の言葉を聞き続け、主の言葉を思い起こしていく、それが惑わされない信仰の歩みなのです。



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