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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

香りただよう

秋の気配を感じる主の日の朝、
ナルドの香油の香りが漂うな礼拝になればと願い、
主の言葉を分かち合いました。
1度で終わるのがもったいないほどに、豊かな内容でした。

 周りの環境や人々、出来事が、私たちの人生に決定的な暗い影を落としているのではありません。確かに環境は大きな影響を与えますが、本質的には私たちの内側の罪が、いのちを曇らせます。そして嫌な臭いをまき散らします。私たちの人生を臭くさせる罪の匂いを隠すために、どんなに蓋をしてもそれらは無くなりません。救い主である主イエスだけが、罪を清め救い出すことができます。その救い主イエスを見上げて歩む時、私たちはどんな境遇にあっても、いのちが輝く歩みをさせていただけるのです!



 周りの人々は、どうして彼女は、そこまでのことを主イエスにしたのかと問うでしょう。それは、そこまでするほどに、主の愛が自分に注がれているのを彼女は誰よりも知っていたからです。どうして結婚の支度金を注ぐような身に余る奉仕を、そこまで精一杯、主イエスにするのかと問うでしょう。それは、自分こそ身に余る神の愛を、主の憐れみを、彼女が主から受けたことを知っていたから、その応答としてナルドの香油を注がずにはおれなかったのです。



20140824

 よーく覚えておきたいこと、それは、愛とは計算しないということです。愛は計算しない、取引しないのです。あの人に、こうしたら、こうなって、あーなって、そしてこうなるだろう・・・、それは頭の中で計算しています。証しという名のもとに、クリスチャンも時々、愛を計算して、神の業を頭の中で筋書として練ります。しかしそれは間違いです。計算をするということは、合理的な世界に生きていることであり、言わば無駄をなくしていくことになります。しかし愛は計算抜きで、そして愛は無駄と思えるようなことをするのです。だからこそ真の愛は、批判やされても、あざけられても耐えることができるのです。



 この女性は、今ごろ天国で「あーやっぱり、ナルドの香油を注がなければ良かった。注いだとしても全部ではなく、少しだけにしておけば良かった」などとは思っていないでしょう。むしろ「自分のできることを精一杯の形で、自分なりに表したことを、主イエスがこんなに喜んでもらえるとは、『葬りの準備をしてくれた』と言ってもらえるとは思わなかった」と、計算抜きで表した彼女の愛が、計算できない程に主イエスに受けとめてられたことを喜んでいるでしょう。



 〇〇兄は、転勤族です。もちろん私たちは、いつまでも北見に居て欲しいと思います。しかし時が来たら移っていきます。
それでも〇〇兄は、「俺はさすらいのギター弾き。風の吹くまま気の向くままよ」と、お客様のように主の体である教会に集われているかと言えば、そうではありませんね。「主よ、今、私は北見に遣わされています。主が遣わして下さったんですよね。この数年間、この地で私のすべきことがあるんですよね」、そうやって、言わば私が今、ここで、割るべきナルドの香油があると受けとめておられるます。だからこそ、祈りつつ「先生、こうしてもいいですか」と尋ねながら、実行されているのです。

 今、自分が主のために割るべきナルドの香油は、何でしょうか?来月は来月、来年は来年、それぞれに出来ることを主の前にさせていただくのです。今日、今週、今年、全力をもって主のために捧げるものがあります。あなたのナルドの香油を割って下さい。そうするなら、そこからいのちの香り、キリストの香りが溢れ出てくるのです。



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