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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

吠えることなく

9月最初の礼拝のメッセージ断片集です。
この日の午前中は、気持ちの良いぐらいの晴天でした!

そして夕方からは、雨になりました。このことも感謝♪
その理由は、また今後の記事にて。

 体の弱い家内は、私と結婚して少し元気になったと言いますが。何故だと思います? 私が優しいからか? そうだったら良いのですが、実は、私がうるさいからです。例えば、これは何ですか?(下の画像のA) そう、素麺なのですが、私にとっては違うんですよ~。私にとっての素麺は、こちらです(下の画像のB)。違いは明らかですね。野菜があるかどうかです。Aの素麺を出した妻に、「野菜がないの?」と言うと「ネギがある」と答えるので、「いやいや、それは薬味でしょう」と言って、ちゃぶ台をひっくり返す・・・ことはしません(世界の平和のために)。

 育ってきた環境の中で、食卓に上る野菜の絶対量が違うんですね。私は三十数年間、朝食にご飯を食べてきましたが、結婚してからは家内に謙遜を示してパン食を受け入れました。ただ「野菜は付けといて」とお願いしています。まぁ作る側にとっては面倒くさいものでしょうが、それでも家内は今まで以上に野菜を採るようになって、元気になったと本人が言うのですから本当です。食べることで生きるというよりも、何を食べるのかが問われます。ジャンクフードや外食、好き嫌いや栄養の偏りがあると、食べているけれども、健康にはなりません。

 体だけではなく、心や魂も同じですね。何によって満たされているか? 趣味や楽しみも大事です。しかし命のパンであるキリストを食することで、キリストによって養われていきます。主イエスと私たちが1つになり、私たちの命となります。主イエスの命、それは愛と言っても良いでしょう。自分のことばかり考えている自己中の愛ではなく、裏切られても継続する愛を、聖餐式でキリストのパンを食することで、主イエスと1つになり、主イエスの姿に変えられていくのです。 



素麺

 この過越しの祭りでは、パン種の入っていないパンが用いられました。つまりイースト菌の入っていないパンのことです。イースト菌が入っているとパンが膨らむのですが、パン種ないと膨らみません。それどころから、キリストの体であるパンは裂かれる、切れ切れにちぎられました。これがキリストの教会に与えられるしるしです。いっぱいに膨れ上がるというよりも、裂かれ、小さくされ、砕かれるのです。聖餐式を祝う教会、キリストを食する私たちは、自分のための利益を追求し、自らの野望をかなえる集団ではなく、むしろ自分自身が砕かれていくのです。高ぶりではなく小さくされていくのです。そして主イエスのように与える者となっていくのです。



 私たちの姿であるアダムとエバは、欲しいものをもぎ取り、奪い取りました。その結果は罪と死でした。しかし聖餐式では、キリストが「受け取りなさい」と勧めるのです。自分の欲しいものを奪い取るのではなく、キリストご自身をそのまま受け取るのです。受け取るためには、手放さなければならないものも当然出てくるでしょう。そうやってキリストに相応しくないものを手放し、キリストをご自身を受け取ることで、私たちは神に似せて造られたイメージ(神の形)を取り戻していくのです。



20140907

 先週の祈祷会で、T兄が時事ニュースを分かち合って下さいました。埼玉県の盲導犬オスカーが何者かによって刺された悲しい出来事、心痛む事件です。T兄が話された言葉は、私を打ちました。T兄は犯人に対する憤り以上に、盲導犬に、そして自分自身に目を向けておられました。

 「盲導犬は飼い主に危険が及ばないかぎり、極力、声をあげないように訓練されています。犬は飼い主のために、吠えることなく必死で痛みに耐えていた。その犬、盲導犬に比べて自分はどうだ? 自分は盲導犬にも劣るのではないか」、そんな真実な分かち合いをされたのです。

 私もそうだ、本当に私もそうだと、大きくうなずきました。盲導犬は刺されても、血を流しても、それでも吠えないで、飼い主のために自分の務めを忠実に全うしてしていました。それに比べて私たちはどうか。「あれがどう、これがどう、痛い、しんどい、もう嫌だ・・・」と、盲導犬のようにじっと耐える、私たちの主のために、耐えながら、自分の使命を忠実に行っているだろうか? 飼い主のために血を流している盲導犬にも劣るような自分の弱さを思わずにはおれません。

 そんな私たちのために、私たちの飼い主ではない、私たちの造り主、救い主のイエスが、私たちを救うために、罪の赦しのために、救い主のイエスが血を流されたのです。釘打たれた主イエスの手から血が流れる、槍に貫かれて主イエスの脇腹から血が溢れ出ます。ののしられてもののしり返さず、十字架の苦しみを、罪の苦しみを一心に背負われました。この主イエスの血潮によって、私たちの罪は赦され、罪の痛みや呪いから解放されて歩んでいけるのです。



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