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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

「祈る前に」

10月19日礼拝メッセージの断片集です。
この日は、午後から初めての英語礼拝も開かれました。
とても恵まれました。その様子はまた後日にUPします。

 10月10日はその昔、体育の日でした。東京オリンピックを記念して祝日になったと記憶しているのですが、この日は晴天になる確率が高い日としても有名ですね。
 さて先ほど読んだ聖書では、主イエスがゲッセマネと呼ばれる場所で祈られる様子が記されていました。この日は、過越しの祭りの日の夜でした。この過越しの祭りの夜は、ほぼ100%、満月の夜なのです。10月10日とは比較にならない、すごい確率で満月になるのです。何故でしょうか?それは、「移動祝祭日」だらです。つまり、満月の夜を選んでいるということですね。(春分の日、秋分の日、イースターなども移動祝祭日) 



 時々お話ししますが、私は「祈り」という言葉を「交わり」という言葉に換えた方が良いのではと思うことがあります。ちなみに「愛する」を「大切にする」、「賛美」を「主をほめたたえる」「主を喜ぶ」に言い換えた方が、意味がすんなり通る時があるということです。なぜなら「祈る」「愛する」「賛美する」という言葉に、私たちの固定観念がつきまとっているからです。

 理事長も話されていましたが、自分を鼓舞するための賛美なのか、主をほめたたえているのか、分からないことがあるということです。私はメロディがなくても賛美はできると思います。「あー主は素晴らしい」、英語なら「Praise God」、「God is good」(英語の方が言いやすい)など、自然な形で、会話の中で、日常の出来事の中で「主は素晴らしい!」とたたえること、これが賛美のはずなのです。もちろんメロディをもって音楽として主を賛美することも、確かに賛美ですし、それは大いに素晴らしいことです。しかし賛美の本質は、歌うことではなく、主をたたえ、主を喜ぶことなのです。メロディがなくても、その人の生き方そのものが主を喜んでいる、それが賛美の本質のはずです。

 同じように「祈る」ということが、お願いだけで終わっていないでしょうか。「主の祈り」が形式的な文言となっていないでしょうか。「祈る」ことの本質は、主との深い交わりのはずです。自分の思いや願いも、もちろん主に申し上げます。そして主の御声を聞き、主と深く交わる、それが祈りのはずです。



20141019

 祈り心を持ってする日々のディボーションや分かち合いはとても大切です。しかしともすると、聖書を読んで、また礼拝説教を聞いて、「私はこう思う、こう感じた」、そういう自分の思いが中心になっていくことがあります。しかし一番大切なことは、主が私に何を教え、何を語られたかと、主の思いを知ることなのです。私たちの感想は日々に変わります。言ってることも変わります。「私はこう感じ、こう思った」という自分の気持ちを中心にしていると、ふらふらふらふらした歩みとなります。

 もちろん主は私たちの思いを無視されません。私たちが何を感じ、何を思うのかを小さなこととして扱われません。だから私たちは思いのままを祈りの中で主に申し上げて良いのです。詩篇の作者のように、恨みや憎しみさえも隠すことなく、大いに心を注ぎ出して祈っても良いのです。しかし私たちの方は、自分の思いだけにこだわり、自分の思いを大切にするほどに、主の思い、主の心を大切にし、それを聞き、受けとめようとしているかということです。それがなければ、祈りは主との交わりにはならないのです。

 主イエスは「この苦き杯を取り除いてください」と正直に祈られました。何度も祈られました。そしてその祈りの中で、しっかりと父なる神の御心を知り、「立て、さあ行こう」と力強く進まれたのです。私たちも祈りの中で主と交わり、主の御心を知ったならば、私たちはしっかりと立ち上がることが出来ます。主イエスが父なる神の思いを知って、十字架に向かっていったその力が、祈りの中で主と深く交わることで与えられるのです。



20141019英語礼拝

 私たちが祈る前に、主と深く交わる前に、目を開けて見つめるべきものがあります。それは私たちのために、苦しみ、悲しみもだえながら、祈られる主イエスの姿です。眠っているとは、信仰が眠っているということです。つまり主イエスを見つめていないということで、祈られる主イエスを見ようとしていないということです。

へブル5:7  「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」

 主イエス様がこのように祈られたのです。そして今も私たちのために天の右に座して祈られるのです。「誰が助けてくれない」とか、「祈ってくれない」とかではなく、目を開いて、今、復活の主が私のために、私たちのために祈っておられる、その姿を私たちは目を覚まして見つめるのです。

 その時、私たちは、主イエスの祈りに励まされて、また聖霊の切なるうめきに励まされて、私たちもますます祈る者になります。そしてどんな状況でも立ち上がっていく力が与えられるのです。また私たちが誰かのためにとりなして祈る時も、人々の罪が満ちた苦き杯を目の前に苦しまれながら祈られる主イエスの姿を見つめるのです。主イエスも諦めないで祈られたのです。そして勝利の主、復活の主は、今も共に祈っていて下さるのです。そうやって主が祈られる姿を見つめ、主の祈りに励まされて、立ち上がって歩んでいこうではありませんか。



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