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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

はからずも

 2月最初の日曜日は、暴風雪の中での礼拝でした。朝から吹きだまって腰まである雪をかき分けながら2時間ほど雪かきをして、警報が発令されていなかったので通常通りに礼拝を捧げました。

 北見郊外に住まわれている方々が、通行止めのために来れないのは想定内でした。しかし市街地の方々も家の前の道路に除雪が入っていなかったので出られず、礼拝の出席者は通常の半数ぐらいでした。来ることの出来ない方々の分も心を込めて賛美し、主の恵みは半減することのない礼拝となりました。

 無理をして(?)隣町から来られたMさんは、帰り道でホワイトアウトに見舞われ、恐怖を覚えて教会に引き返して来られました。それが正解です。Mさんが恐怖を覚えるとは、余程の暴風雪なのでしょう!教会で1泊され、日曜日の夕方、月曜日の朝と、雪かきを一緒に手伝ってくれました。

 さて先週から、ルツ記の講解説教になっています。私自身も多くのことに目が開かれ、「はからずも」の世界に生きる幸いを覚えます。
 
20150201
(約250字のメッセージのエッセンスは、コチラ

 ルツは失意の中で悲しみに閉じこもらず、慣れない環境のことで不足を言わず、「私に畑へ行かせて下さい」と姑のナオミに言いました。

 神を信じているということ、主を待ち望むということは、何もしないで神にお任せということではありません。「神様、どうして助けてくれないんですか」と、立ちすくむことでもありません。「今、自分の出来ることは何だろうか」と、忠実に、誠実に立ち上がる力、これこそ信仰の力なのです。「私の人生は、主の大きな御翼の中にあるのだから大丈夫だ」と、今日、出来ることをしていく、それが信仰者の力なのです。



 主に力を頂いて忠実になすべきことをしていく時、私たちは主の備えを体験します。ルツは「はからずも」ボアズの畑で落穂を拾うようになりました。やがてルツにとって決定的な存在となるボアズだと、分かってその畑に行ったのではありません。それは「はからずも」、ルツの頭では計算できない神の恵みの備えだったのです。

 2章3節は、新改訳と口語訳では「はからずも」、新共同訳聖書では「たまたま」と訳されています。NIVでは、 As it turned out 。Tさんの口癖では、「偶然とは言え、奇跡」です!私はこの「はらずも」を読むたびに、心が震えます。私の思いを遥かに超えた主の御業が、自分の知らないところで始まっていることを思うからです。




(礼拝で「生ける限り主を」賛美しました。
 こんなにしっとりとはなりませんでしたが・笑)

 20年前に聞いた、現在CBC校長のK先生が語られたメッセージの主題を忘れることが出来ません。内容と聖書箇所は、ほとんど覚えていませんが、その主題は鮮明に覚えています。それは、「宿命か、それとも摂理か」という主題でした。何とかっこいい主題かと、大学生の私は魅了されてしまいました。

 今ある状況を宿命論的に、あるいは運命論的に、「仕方が無い」と片付けてしまってはいけないということです。神の摂理、神の計画がある、神はきちんと備えて下さる、そういう信仰を持ちなさいということでしょう。

 1章ではこれ以上無いというほどの不幸、悲しみ、そういう運命を呪ってもいい、宿命が支配しているかのようでした。しかしルツは、神を信じ、信頼するという生き方を選びました。その時「はからずも」、「偶然とは言え奇跡」という信仰の恵み、神の備えをを体験していくのです。



 主の翼の中に生きるとは、新約聖書では主イエスと共に生きると言っても良いでしょう。私たちは土の器、小さな存在です。しかし、私たちにはキリストという宝があります。それは「計り知れない神の力」なのです。私たちの想像を越えた、計算できない、そんな大きなキリストの力が私たちの人生に現されていきます。主なる神は私たちの人生にそういう計り知れない備えをして下さる、そういう信仰に立っていこうではありませんか。



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