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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

見捨てることなく

 日中は暖かくなり、雪も溶け始めて大通りから一本入った道路などは、大変な状態となっていました。春が近づいている証拠です。そんな日射しのある日曜日、午前の礼拝と午後からの三浦綾子読書会(第4回の様子「あれにはあなたの悲しみが」)、そして夜のⅡ礼拝の時を恵みの中で持ちました。

 ナオミにとっては、まるで見捨てられたかのように思えた1章でした。しかし4章になってはっきりと、主は決してナオミを見捨てていないということが分かります。ナオミには分かりませんでしたが、主の目は初めから限りなくナオミに注がれています。1章から、ナオミは見捨てられてなんかいないのです。

 どんなに自分で頑張っても元気なんか出そうもない、魂が干からびてしまっている、そんな状態であったナオミを主は見捨てることなく、新しい命、生きる力を与えます。自分の老後にはもう何の楽しみもないと思っていたかもしれません。しかし全能の主は、ナオミを見捨てることなく、その老後の支えを与えられます。また自分の老後が支えられるだけではなく、その男の子の将来に対する期待や希望も与えます。



 「あなたを愛し、7人の息子にもまさるあなたの嫁」、こんな言葉を聞いたことがありません。古今東西、嫁と姑とは仲が悪いようです。「嫁と姑のよう」を英語の慣用句では、“There is no love lost between them.”というそうです。面白いですね。

 母親は普通、息子が可愛いようですね。下手をすると(?)、夫よりも息子のことを愛しているかも知れませんが、それは全く聖書的ではありません!

 夫と息子を比べて息子の方が・・・という母親もいる中で、「7人の息子よりも嫁の方が勝る」とは、本来あり得ないと思うのです。ナオミとルツは、どうしてこういう嫁と姑の愛の関係が成り立ったのでしょうか。その鍵は1章のルツの言葉、「あなたの民は私の民 あなたの神は私の神」という告白と決断にあります。これは、ルツ記の1つの骨格となる言葉で、ここに愛と信仰があります。



20150308
(約250字のエッセンスは、コチラ

 愛と信仰は1つです。このことはどんなに強調しても強調し過ぎることはありません。自分の命を捨てるほどの信仰を持っていても、愛が無ければ一切は無益だと聖書にはっきりと記されています。信仰という名の自爆テロ。確かに強い信仰かもしれないけれど、そこに愛が忘れられています。

 時に間違った自分の熱心を土台にして、信仰が暴走をしてしまうのです。言ってることは正しいかもしれません。また正しいことを信じているのに、そこに愛が無いから、信仰という名のもとに悲劇が起こることがあります。人ごとではありません。私たちが信仰を持って神を礼拝しているのは、家族や同僚の不足や不満を言い、彼らの間違いを責めたてるためではなく、愛するためです。



 1章では「全能者が私をひどく苦しめた」と、ナオミは言います。全能者ならば、何でも出来る神ならば、どうしてこんなことになるんだ、実はナオミの方が主を見捨てているのです。人間が造る歴史、人間の歴史は、アダムとエバから始まって、人が主なる神を見捨てる歴史なのでしょう。悲しいかな、人は神を裏切る、人は神を無視する、神を否定し離れていきます。それが罪の根源でしょう。

 しかし神の歴史は、神の形に似せて作られた人を諦めることなく、神を見捨てる人を見捨てない歴史です。神の愛から離れた人の歴史は、信じること、愛することを破壊し、神を見捨て、人を見捨て、自分に見切りをつけて、虚無的な生き方になっていきます。そういう人間、私たちを主は見捨てることなく、私たちの身代わりに主イエスを十字架にかけて救いの道を開く、救いの歴史、それが神の歴史です。

 主イエスは十字架の上で叫ばれました、「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。主イエスは私たちが叫ばなければならない言葉を、私たちに代わって叫ばれたのです。本来は神を無視する私たちが、神に見捨てられなければならないのに、神の子である主イエスが人の子となって身代わりに見捨てられたのです。この事実を信じて歩んでいくこと、そこに救いの道が開けていくのです。



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