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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

先行する愛と赦し

 主イエスがエルサレム入場をされた棕櫚(しゅろ)の日の礼拝、受難週が始まる礼拝を共に捧げました。礼拝後は、お昼ご飯を共に食べてシェア(分かち合い)のひと時を持ち、お互いのために祈り合いました。そして4月12日の礼拝奏楽の練習をしました。夜のⅡ礼拝にSさんが集われて感謝でした♪

20150329礼拝

 以前にもお話ししましたが、騙されてはいけないもの、鵜呑みにしていけないもの3つあると言われています。1つは、新聞記事。新聞に書いているから、ましてネットにあったから、それは正しいわけではないということ。2つ目は、各種統計。数字で示されると客観的に思うものですが、しかし提示の仕方によって大きく印象が変わり、提示する側の印象操作がないわけではありません。

 最後に、女性の涙。最終手段の武器の場合もあるというじょとですね。泣いているからと言って、決して悲しんでいるわけではない、ましてや反省しているとは限らないということ。もちろん全ての涙がそうではありませんが(笑)クリスチャンの涙もそうでしょう。それは何の涙か、何に悲しみ、何を喜び、何に感動している涙なのでしょうか。その場だけの涙なのでしょうか。それともその後の生き方が変わるような涙なのでしょうか。あるいは、主イエスが流された涙と同じ涙でしょうか。

 ここでペテロが涙を流しています。もちろん自分の情けなさに涙を流しているのですが、単に後悔している涙ということではないでしょう。主イエスの言葉を思い起こして、激しく泣かずにはおれなかったその涙とは、自らの罪を悲しむ涙なのでしょう。悲劇の中に沈み込む涙ではありません。真実な主イエスに対して申し訳ないという思い、父なる神を悲しませているという悲しみ、そういう涙なのです。自らの罪を知っているとは、そういうことでしょう。

 Ⅱコリント7:10にあるような、神の御心にそった悲しみ、その涙は、自分の悲しみに閉じこもってうじうじする涙ではなく、神に向かっていく、少しずつでも方向転換していかずにはおれない、そういう涙をここでペテロは流しています。



 お昼ご飯を食べて皆さんとシェア(分かち合い)をした時に、Sさんが「騙されてはいけないもので『女性の涙』と言われていましたが、私にとっては『男性の褒め言葉』、『男性の謝罪』も鵜呑みにできませんよねぇ」と話され、こりゃぁ一本取られましたという感じでした(笑)

20150329
(約250字のメッセージのエッセンスは、コチラ

 ペテロは、自分の罪を悲しむ涙を流しました。しかし人の涙は、罪を悲しみ認めるまでです。どんなに自分の罪を認めて悲しんでも、どんなに涙しても自分の涙で罪を洗い流せません。真実の罪の悔い改めと赦しは、主イエスが十字架の上で流されたその血潮によります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(Ⅰヨハネ1:7)



 主イエスは、ペテロを愛します。しかしそれはペテロが立派な人間だからではありません。ペテロを愛するから愛するのです。つまり愛の理由、愛の主体は、主の側にあるのです。だからこそ裏切ることを知った上で、それでも主イエスはペテロの足を、私の足を洗い、最後の最後まで愛を示し続けます。

 主イエスは十字架にかかり、人類の罪を背負い、その罰を受けます。そこに主の赦しがあります。主イエスがペテロを赦すのは、ペテロが悔い改めたからではありません。悔い改める前に、罪を赦す十字架に掛かられるのです。主イエスが罪を赦してくださる十字架にかかられたから、ペテロは悔い改めることができるのです。悔い改めたら赦されるというよりも、赦しが先行しているから、赦しの道が十字架によって開かれているから、私たちは罪を認め、告白し、悔い改めることができるのです。

 徹頭徹尾、主の愛が先行しています。主の赦しが先行しています。私たちはただただ、十字架の下にひざまずく以外にありません。受難週を過ごす今週、主イエスが流された愛と赦しの血潮の意味を、私たちは噛み締めていこうじゃありませんか。

 

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