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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

立派でも

 5月最後の主日礼拝でした。日曜日が第5週まである月は、何だか得した気分になります。皆さんとご一緒に礼拝できることが嬉しいのです。

 昨年末から礼拝に集われているある方が「教会に来るとほっとするのは、神さまに近づくからなんですね。イエスさまを知らない間は、一生懸命に何かをしても、ただ疲れだけが残るようで・・・」と話されていました。そういう言葉を聞くと、とってもほっとする私です。

 コルネリオは、「敬虔な人」だったと記されています。一般の方が「あの方は敬虔なクリスチャンで」という言葉を時に耳にしたものですが、最近あまりキリスト者を形容する言葉に「敬虔な」という言葉が聞かれないようになりました。「敬虔」って、もう死語になったのでしょうか? あるいはキリスト者の生き方が、敬虔に見えなくなってしまったのでしょうか?



 箴言3章6節に「あなたのいく所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と記されています。「主を畏れる」とは、「主を認める」ということも含んでいるでしょう。教会にいる時、家庭にいる時、職場にいる時、いつでもどこでも、いろんなことがあっても、そこに主を認めていくのです。主の偉大さを信じていくのです。主の愛、主の力がそこにも現されると信じていくのです。



20150531
(約250字のメッセージのエッセンスは、コチラ

 「多くの施しといつもの祈り」をコルネリオは大切にしていました。聖書中では、祈りと施し(他者への隣人愛の実践)が、1セットになって語られている場面が多くあります。

 礼拝に出席し、聖書を読み、祈っているけれども、もし行動が伴わないとしたならば、信仰的メタボの状態かもしれません。それは祈っていても、その祈りの中で主の御声をしっかりと聞いていないのかもしれません。聖書を読みながらも、主の思いではなく自分の思いにこだわっているのかもしれません。本当の祈りは、主との交わりです。主の思いを知る時、主の愛が沸き上がり、行動へと移っていく力がそこにあります。

 誰かのために行動はするけれど、主の前にそれほど祈らないということであれば、その他者のための行動は、やがて疲れ果ててしまうか、的外れで実を結ばないものになります。なぜなら自分の力と自分の愛には限界があるからです。主との深い交わりである祈りによってこそ、継続する真の愛の行動が生まれてくるのです。



 こんなに立派で敬虔なコルネリオでしたが、それで良いということではありません。彼にもキリストが必要なのです。そして聖霊の力が必要なのです。その時、マタイ11:28から29節と30節へと移行していく歩みとなっていきます。



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