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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

動かしがたい事実

 体調不良で休まれている方々の癒しと快復を祈りつつ、集われた方々と全身全霊全力で主を礼拝しました♪

 午後からは各自持ち寄りの愛餐会、そしてEnglish Serviceを午後3時から持ちました。「今回は少ないかもしれない」とGさんが話されていたのですが、30名近い方々が集われ、Gさんの誕生日を主御自身がお祝いして下さっているようでした。Kさんの庭で採れたサクランボも、花(実?)を添えてくれました。

 先週の聖書日課で、Ⅰ歴代誌16:11に「主とそのみ力とを求めよ。つねにそのみ顔をたずねよ」と歌われていました。私は祈りの中で、主の力をいつも切に求めています。自分の力はあまりにも小さくて弱いからです。そして教会である一人一人の歩みに、主の力ある業を心から慕い求めて祈ります。

 しかしダビデは単に「主の力」ではなく、「主とその力とを求めよ」と賛美していることに改めて気づくのです。つまり、主の力と主ご自身を切り離してはいないということです。ガソリンスタンドで給油するような、そういうエネルギーのような力を求めて、神の前に礼拝を捧げているのではないということでしょう。

 主の「み顔をたずねよ」とも歌います。主の「み顔」とは、主との人格的な交わりのことでしょう。今、皆さんと顔と顔とを合わせて、「あ、元気そうだなぁ」、「ちょっと疲れてるかなぁ」と、顔を見合ってこそ通わせることができるものがあります。私たちは先ほども賛美をしましたように、つねに、絶えず、主のみ顔を求めていきたいのです。賛美、御言葉、祈りの中で、礼拝全体を通してです。

 今日は「神の御前で生きる」という主題です。主のみ顔、主の眼差しが私に注がれているということが前提です。



20150621
(約250字のエッセンスは、コチラ

 コルネリオを通して、神を畏れる姿勢は、人を愛して施しをする、そして相手を尊敬する姿勢へとなっていくことが分かります。つまり、神の御前に生き、神を畏れる姿勢は、人を愛し、人を尊敬する姿勢へとなっていくのです。 



 「夫は自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい」(エペソ5:33)、はい、それほど力なく読んでくださってありがとうございます(笑)夫が妻に伝わるような形で愛を現さない、妻が夫を敬わなくなる(夫のいないところで「お父さんは・・・」と言い始める)、これは危機の始まりです。相手を愛することと、相手を敬うことは1つです。



 自分がほめられると嬉しいでしょう。よーく分かります。「もっとほめて!」とさえ思います(笑)でもね、誰かを健全に尊敬する時、嬉しいとはまた別の霊的な満たしが内側に沸き上がるのです。肉の喜びとは次元が違う、霊が喜ぶということです。人を敬う時、自分の霊が喜び、愛と平安に満たされるのです。



 尊敬するとは、何か尊敬すべき良いことを探し出すということ以上に、存在を尊ぶということです。「あなたがいてくれて私は嬉しい」という思いです。その根底には、主が出会わせて下さった方だという主を認める思いがあります。コルネリオとペテロは初めて会ったのであって、まだお互いによく知らないのです。しかし主が出会わせてくださった、そこに主を認める時、存在を尊ぶ思いが沸き上がるのです。私たちが出会う方々、初めての人も何十年のお付き合いの方々も、主が出会わせてくださったのだと主を認める時、すなわち神の御前で生きる時、長所も短所もいろいろあるけれど、それらをひっくるめて存在を尊ぶ思いが沸き上がるのです。




(黒人教会の悲劇を思いつ、このバージョンではありませんが、
 礼拝でAmazing Graceを賛美しました)

 健全な罪意識を持つ時、人は低く低く、謙遜になっていきます。しかし不健全な罪意識は、低くなるのではなく、卑屈になっていきます。



 同じ目標や目的を持つ者同志、同じ思想や信仰を持つ者同志が、一致して歩んでいけるわけではありません。同じ目的や気の合う方々が同じ方向を向いていれば、一致協力できそうな気がします。しかし蜜月と呼ばれる一定の期間だけで、やがて分裂や分派を繰り返していくのです。

 人が本当の意味で1つになれるのは、「罪深い我が身」という動かしがたい事実によってなのです。



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