FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

山本山ですよ

 暑い日曜日でしたが、湿気がないので眩しい太陽のもと、主の大庭にいる1日を過ごしました。礼拝後は、自分自身の昼食を持ち寄って愛餐会を持ち、その後のシェアが主イエスを真ん中にして豊かなひと時となりました。その後、三浦綾子読書会、そして夜はⅡ礼拝がありました。

 聖霊なる神は、力を与えるので、時々エネルギーのように喩えられます。それは聖霊の比喩として、炎、風、油などが用いられているかでしょう。だから例えばガソリン補給、ドリンク剤のように、聖霊に満たされて「ファイト!一発!」というようになってしまいがちなところがあります。

 しかし聖霊なる神は、人格を持っておられます。悲しみ、喜び、うめかれます。そのように人格を持っておられるから、
1人1人の状況をよくご存知で、それぞれに対して、それぞれに対応してくださいます。聖霊の働きは豊かなものです。決して画一的ではありませんし、多種多様です。一面的でパターン化されたものではなく、多面的で豊かなのです。



20150712エネルギー

 自分は聖霊に満たされたらこうなった、だからあなたもこうなるべきだと押しつけてはいけません。それは聖霊の働きを画一化してしまいます。だいたい激しくと願う方は、静かに確かに聖霊が臨んでくださることも求めてはいかがでしょうか。豊かさを味わうためにです。静かにと願う方は、自分の殻が破れる、ダイナミックな聖霊の働きを求めてはいかがでしょうか。私たちの思いを超えて、聖霊は豊かに働かれるからです。



20150712山本山

 言葉は最善のコミュニケーションの手段ですが、しばしばコミュニケーションの妨げにもなります。言葉の限界ってあります。日本語は通じているのに、伝わらないもの、話さなければ良かった、ということもあります。

 S先生が、昔の山本山のコマーシャルの例を話されていましたね。「ばあさんや。今のは山本山じゃなかったかね」、「嫌ですね、おじいさん。今のは山本山ですよ」、「そうかい。わしゃまた、山本山かと思った・・」(笑)会話は成り立っていません。何の情報も伝わっていません。しかし老夫婦の心はつながっています。お互いの存在を受け入れる愛がそこに流れています!

 同じくS先生が、中国残留孤児と日本人家族の対面のことも話されていました。親子だと分かったけれども、互いの言葉は通じないのです。しかし「ワーワー」、「ガーガー」と叫び合っているあの様子は、ブラウン管から見ていても言葉にはならない一番大切なものが伝わっているのが分かりました。

 異言で祈り賛美するということは、自分の言葉の限界を超えて、より高く、より深い次元で神と交わるということです。うめくこともあるでしょう。言葉に表せない思いを、異言で主に申し上げながら、主と深く交わるコミュニケーションです。主が私の存在を喜ばれ、私も主を多いに喜び、言葉の壁、言葉の障害、隔たりが取り除かれた交わり、それが異言による祈りと賛美です。



20150712
(250字のメッセージエッセンスは、コチラ

 交わりやコミュニケーションの土台は愛です。愛とは相手を受け入れることです。決して独りよがりではありません。もしそこに愛がなかったら、ただ自分が満たされることだけを求めていたら、パウロははっきりと言いいます、「異言で祈っても愛が無ければそれは騒がしいドラだ」と。

 異言で主を賛美する目的は、自分が恍惚状態になり、自分が満たされることではありません。主なる神との深い交わりこそが、大きな目的です。主との深い交わりの結果、私たちの霊が満たされるのです。



 このカイザリヤのペンテコステは、今も私たちの教会に、この地域に与えられることを私たちは信じていきましょう!



にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村
礼拝メッセージの断片集 |
| ホーム |