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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

立ち直ったら

 11月前後というのは、北海道では最低気温がマイナスになり始める時なので、体調を崩しやすい季節ですね。日曜日の礼拝では、大きな声で賛美する元気な4人がお休みされていました。その代わりではありませんが、4人家族が礼拝に来られ感謝でした♪以下、礼拝メッセージの断片集です。

 真の問題は、問題が大きいか小さいかではありません。また私たちの心が強いか弱いかということでもありません。キリストを小さくしていないか、このことこそ真に問われるべきことです。

 私たちの内におられるキリストが小さくなる時、私たちの心も弱くなり、信仰も小さくなっていきます。内におられるキリストを信頼し、大きくしていく時、私たちの内側も結果的に強められていきます。



20151103
(250字のエッセンスは、コチラです)

 キリストの愛の深さは、罪の深さにまでも及びます。どんな深い、ひどい罪の中にあっても、そこにも神の愛は及んでいきます。またどん底と思われるようなところ、自分は最低だと思うようなところを通っても、そこに愛のキリストが共におられます。

 ある神学者は、「神に見捨てられたと思うことは、聖書的だ」と記していました。なぜならダビデも、主イエスも、神に見捨てられるかのようなところを通っているからです。そしてそういう一番惨めな、最低のどん底と思われるそのところにも、いやそこにこそ愛のキリストすぐそばにおられるのです。



 パウロが膝を屈めて祈ったのは、主イエスがパウロのために膝を屈めて祈られたことをよく知っているからです。主イエスはパウロだけではなく、私たち一人ひとりのために、膝を屈めて祈られました。その生涯の中で朝早く、また夜を徹して、主イエスは私たちのために祈られました。

 「あなたの信仰がなくならないように、わたしはあなたのために祈った。立ち直ったら他の人を励ましなさい」と、主イエスはペテロに言われました。主イエスに一番見られたくないみっともない姿を指摘されるのですが、それでも主の眼差しとその祈りは、信仰がなくならないように、また立ち直るだけではなく他の誰かを励ますほどになるペテロの姿を見つめて、主は膝を屈めて祈られました。

 それは私たちのための祈りでもあります。主イエスは、あのゲッセマネの園で、苦しみ悶えながら膝を屈めて祈られたじゃありませんか。あの十字架の上で、神との断絶である罪の呪いを受けられながら、足に釘を打たれて、そこでも膝を曲げながら、十字架の上で私たちの罪を赦す祈りを祈られ、今も、そう今も主は私たちのために祈っておられるのです。



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