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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

選べないもの

 3月最初の礼拝をご一緒しました。Bさんの友人であるKさんご一家が、礼拝に出席されました。帯広の北にある音更町に住まわれているとのことです。あたたかい感じのするご一家で、「元気な礼拝ですね」「子どもたちにとって、タイムリーなメッセージでした」とのことでした。主題が「主にあって両親を敬い、従う」ですからね。

 礼拝後は台所の工事に備えて、食器棚などをみんなで動かしました。その後はSL会(Servant of the Lord)で、主の教会の働きを共に話し合いました。夜のⅡ礼拝には、先週に引続いてMさんが1人で集われました。感謝。以下は礼拝メッセージの断片集です。

 私たちが選べないもの、それは基本的に主なる神が私たちのために選んでくださったのです。例えば、性別、出身地、時代、そして両親、兄弟、子どもなどです。主が選ばれたということは、そこに主の思い、主の計らい、主の願いがあるということです。

 嫌がらせをなさる神ではありません。愛の神を信頼し、そこに主の思いがあると認めていく時、ねじれていたり歪んでいるものが、まっすぐにされていくです(箴言3:6)。



 私たちがこの世に生を受けて誕生して、初めて築く人間関係が親子関係です。また一番近い関係も親子関係となります。その親子関係が上手くいかなくて、あるいは破れたままで、新しい家庭を築いても、結局はどこかで破れてしまいます。人間関係は交換ではなく、修復です。交換や代役では、それが機械的なものとなり、命がなくなります。



20160306
(250字のエッセンスは、コチラ

 もし自分の親があんなことを言わない、これを強制しない、いつも優しくて、正しくて、責任を取ってくれ、首尾一貫し、犠牲的な愛で包む、そういう理想的な親だったら、人は親に従い、心から親を敬うだろうと思います。しかし決してそうではない、それは間違いだということを、私は先週、主から教えられました。

 どんなに親が立派で愛が深く理解があっても、それでも私たちは親に従わないし、敬いながら生きていくということにはなりません。何故か。それは、完全であり完璧であり永遠の愛を持つ父なる神に対し、私たちはいろいろなことを言って従わない、畏れない、そういう原罪、自己中心を持っている罪人だからです。

 こういう親でなかったなら、あんなことを言わなければ、もっと親がこういう風に変わるならば、・・・というところが私たち自身の問題の本質ではありません(もちろん親の影響は大きいという事実を認めながらです)。問題の本質は私たちの周囲ではなく、私たちの内側にある罪、原罪であり、その罪を主イエスによって清められ、赦していただくことこそ、唯一の解決となります。

 どうして聖書は、神は、教会は、罪を問題にするのでしょうか? それは人の罪が、私の罪が愛を壊すからです。自己中心という罪は神と人との愛の関係を裏切り、人との関係を破壊していくのです。父なる神は、そういう破壊的な人生を歩んで欲しくないと強く願い、主イエスに全ての罪を背負わせて私たちの罪の代価を払わせ、赦す道と、和解の道を、修復の道を開いてくださったのです。



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