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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

取り引きではなく

 教会やキャンプ、また祈祷聖会でも何度かお話しをしてきたことですが、私は渡辺和子シスターの生きる姿勢から多くを教えられています。そのように自分が生きているかどうかは、はなはだ怪しいものなのですが・・・。

 例えばシスターが、高齢の母を日本に残してアメリカへ留学した時、勉強を終えて帰ってくるまで元気で待っていて欲しいという気持ちが強かったそうです。そしてアメリカの地で、母のために祈られるその祈りが私の心を打ちました。

 異国アメリカで淋しい思いをすることがあった時、普通は主なる神に向かってその淋しさを訴え、自分の心の満たしを祈ると思うのです。しかしシスターは「神さま、この淋しさを私はじっと我慢しますから、今日、母が淋しい思いをしないようにお願いします」と祈られたそうです。

渡辺和子シスター

 異国で時に聞かなければならない辛い言葉を聞いた時、普通はその理不尽さを主に祈ると思うのです。しかしシスターは「それを笑顔で受けますから、今日とにかく母が辛い言葉を聞かないように、神さまお願いします」と祈られたそうです。

 食卓に自分の口に合わない異国の料理が出てきたら、普通は大好物が出てきた時と同じように感謝の祈りは捧げることができず、苦手な思いと戦うものでしょう。しかしシスターは「それを喜んで人並みにいただきますから、どうぞ母の食卓に、一品でいい、母の好きな料理が出るようにしてやってください」と祈られたそうです。

 シスターはそういう祈りを「契約」とか「取り引き」と呼んでいますが、私はそうではないと思っています。愛は「身代わり」となるという性質があることを思い起こすのです。それは主イエスの十字架で明らかです。誰かのためにとりなして祈るということ、その土台に愛があるからこそ、「身代わり」となって「引き受ける」という言葉がその心から出てきたのだと思います。

 そして誰かのためにとりなして祈るということ、それは他の誰でもない、祈る自分自身がまず強くされているということもよく分かります。

 このシスターの祈りを私自身もある時、ふっと思い出して、真似て祈ったことがあります。そのことについては、また明日の記事で。

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