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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

救いの角

 一昨日の日曜日は晴れた1日となり、礼拝の中にも主の光が差し込んでいるようでした。遠くから運転して来られる方が無事に到着すると、ホッとします。そういう日々がこれからも続きます。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

 詩篇の中にも時々表現される「救いの角」という言葉を使って、ザカリヤは賛美しています。角というのは、その動物の力の象徴であり、しかも単なる象徴ではなく雄同士で戦う時などその角にこそ力が集まります。

 「救いの角を立てられた」という表現は、力ある救い主、イエス・キリストを送られたということです。救い主イエス・キリストには私たちを救う力がある、その力がみなぎっているということです。鹿のオブジェのような飾りではありません。気休めでもなく、救われたような気分になるということでもありません。文字の世界の中だけでもない、実際的な救いの力を持つお方として救い主が立てられた、それがクリスマスなのです。



20161218
(250字のエッセンスは、コチラ

 神の祝福によって、私たちは正しく生きる者となることができます。正しいとは、単なる正義ではなく、間違ってるとか正しいとか、そういう意味ではありません。このザカリヤ讃歌に3度「あわれみ」という言葉があるように、「正しさ」と「あわれみ」は切ってもきれない関係だということを忘れてしまうと、正義は暴走してしまいます。

 人は確かに正義に生きようとします。パリサイ人もそうでした。しかしパリサイ人の正義は、罪だと主イエスは指摘されました。なぜならそこに一番大切な「あわれみ」がなかったからです。自分は正しく生きている、自分は間違っていないと思い込む時、自分の欠点を隠して棚の上にあげ、相手を裁く思いが潜り込みます。その時、正義の名のもとに、あわれみが小さくなっています。聖書の示す、また主なる神の示す「正しさ」とは、「あわれみ」が伴うのです。



 「自分を赦せない」という言葉を聞きます。もちろん率直にそのように感じていることは、痛いほどによく分かります。辛いでしょう。しかし「自分を赦せない」「自分を責める」「自分が嫌い」というという言葉からは、罪意識に敏感で、へりくだって謙遜というイメージを聖書を通しては見出すことはできません。

 「自分を赦せない」という時、必ず同じぐらいに他の誰かを赦せずにいます。「自分を責める」という時、「自分が嫌い」という時も、必ず同じぐらいに他の誰かを責めていて、また他の誰かを嫌っているはずです。

 「私は自分を赦せない」「自分を責める」「自分のことが嫌い」ということは、聖書の教えるへりくだりでも謙遜でもありません。自分を赦せず、自己嫌悪に陥るこんな罪深い私をなおも愛し赦し、解放するために十字架にかかった主イエス、「あなたにすがる以外に救いはありません」と救いの角なるキリストに真摯に近づいていくこと、それは本当の意味でのへりくだりだり、謙遜なのです。

 そうやって十字架に掛かられた救い主イエスを信じ続けていく時、自分の罪が赦されたことを知ります。その時、他の誰かの罪をも赦す道、責めるのではなく、嫌になるのではなく、愛する道が開けていくのでしょう。



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