FC2ブログ

北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

並ばれた

 土曜日に立春を迎えたものの、先週はマイナス20度を下回る日が続いていました。それでも「北見の2月は、陽射しが眩しくて好きです」というIさんの言葉のおかげで、私も北見の2月が好きなのです。

 そんな眩しい陽射しの日曜日、「日の昇るところから、日の沈むところまで」主の御名が讃えられる礼拝では、メッセージ後にじっくりと祈るひと時を持ちました。聖霊によって祈りが導かれる中で、体調を崩して休まれている方やその日におられなかった方々のためにも祈ることができ感謝でした。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

 バプテスマのヨハネが洗礼を授けるそのヨルダン川の岸辺に、人々の行列ができていました。自らの罪を悔い改める人々の列の中に、他の誰でもない主イエスが並んでおられたのです。主イエスが罪人たちの列に並んでおられる、何ともったいない、申し訳ない、ありがたいことでしょうか。



 主イエスは罪がなく、汚れがないのだから、聖(きよ)められる必要はないのです。つまり、洗礼を受ける必要はありません。しかし主イエスはご自身が洗礼を受けられることを「これは正しいことだ」と言われます。正しさとは、神との関係性における正しさです。私たちと神の関係が正しくされ回復されるために、主イエスは洗礼を受け、十字架の道を歩まれるということ、それこそ正しいことだと言われるのです。

 主イエスの正しさの前では、「誰が間違っている、あれはおかしい、私はこう思ったからこうしたんだ」というような、そんな小さな私たちの正義感は、行き場をなくしてしまうはずです。



20170205
(250字のエッセンスは、コチラ

 洗礼を受けた主イエスと共に歩むとは、何があっても天が開かれた歩みをすることができるということです。天が開かれるとは、聖霊によって神の愛の言葉が聞こえてくるということ、神が私の存在を喜んでおられることが分かるということです。何があっても、どこにあっても、天が開かれて、聖霊によって神の愛と喜びに満たされていく、そういう道を主イエスが開いてくださったのです。



イザヤ42:3

 主イエスの洗礼の出来事は、イザヤ42:1−4の成就でもあります。そのような主イエスと共に歩んでいくことこそ、洗礼を受けた者にとって「ふさわしい」のです。

 (1−2)烈火のごとき怒号、糾弾する言葉ではなく、天が開かれて愛と喜びの声を聞き続けていく、これこそ主イエスが開いてくださった私たちにふさわしい歩みなのです。

 (3)心を折ってしまい、自分と人を傷つけている歩みが、洗礼者にふさわしいのではありません。主によって力づけられて立ち上がることができる、そして私たちも誰かの傍らに立つことができる、それこそふさわしいと主イエスは言われるのです。

 (3)希望の火も残りわずかになり、すさぶ風に消え入るようなそういう心に、命の光を灯してくださる、そういう主イエスと共に歩むことこそ、私たちにふさわしいと言われるのです。



 私の説教準備は、文章を仕上げる完全原稿ではなく、話すことを意識して記しているので、文章としては不完全な原稿です。このblogに載せる時は、ちょっとは修正して付け加えているのですが、それでも「メッセージの断片集」なので声が聞こえてくるようなニュアンスを残したいなあという思惑を持っています。通じているか否かは、定かではありませんが!

にほんブログ村 地域生活(街) 北海道ブログ 北見情報へ
にほんブログ村
礼拝メッセージの断片集 |
| ホーム |