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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

何度までではなく

 前日の雨が嘘のように、すっかり晴れ渡った日曜日(5/28)の朝でした。妻が紋別へ出かけたので、私が司会、奏楽、説教、祈りの導きなどをしましたが、何よりも集われる皆さんと一緒に心を合わせて礼拝を捧げられるということが嬉しいですね。

 礼拝後、お弁当愛餐会と分かち合いをしている最中、それこそ午前中の晴れが嘘のように雷雨と土砂降りの雨。そして停電。Eちゃんがお祈りすると、すぐに復旧しました♫ 3時からはEnglish Gospel Worshipでした。以下は礼拝メッセージの断片集です。

 以前にも紹介しました。ある家庭での夕御飯の様子を小学生の男の子が作文にしました。

 お父さんとお兄ちゃんと3人で晩御飯を食べていました。その時僕は、おかずをこぼしてしまいました。それを見たお父さんは「よそ見をしているからそういうことになるんだ」と言いました。お兄ちゃんも「そうだ、そうだ、よそ見をしているからだ」と言いました。3分後、お父さんがおかずをこぼしました。そして家中はシーンとなりました。 

 事の大小はあったとしても、似たりよったりのことが私たちの生活にありますね。



20170528
(250字のエッセンスは、コチラ

 私たちの代表であるペテロと同じく、「赦す」ということを考える時に、私たちが前提にしている1つのことがあるでしょう。それは赦す私たちの側が正しく、赦さなければならない相手が悪いという図式です。ゆえに、悪い相手を何度まで赦せばいいのか、そのような質問になってしまいます。

 「赦し」が私たちに人生の主題となる時、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか」ということではなく、「主よ。私があなたや兄弟に対して罪を犯したばあい、何度まで赦されるのでしょうか」という問いかけが内側から起こってくることが大切なことです。「赦し」について私たちが本当に尋ねるべきことは、心を痛めつつ、主のあわれみにすがりながら、「私のような者を赦してくださるんですね」ということです。その問いかけ、実感が無い場合、私たちは本当の意味で人を赦すことはできないのでしょう。



 この僕は1万タラントもの莫大な負債を作り、王に大きな迷惑をかけましたが、それでも王から悪い僕と言われませんでした。むしろ王は「かわいそうに思って」、つまり「あわれに思って」僕の借財を赦してしてやったのです。「確かにあなたは莫大な負債を作ったけれども、しかし悪い僕ではない、私の大切な僕だ。この莫大なお金以上に、あなたのことを大切に思っている」、それが王の心、あわれみでした。

 しかしこの僕が、その仲間の負債を赦さなかった時、初めてそこで王は「悪い僕」と呼ぶのです。「わたしがあなたをあわれんだように、どうして仲間をあわれまなかったのか」と。悲しいんだと思うんです、心が通じないから。愛とあわれみを受けながら、その愛とあわれみに生きることができないから。

 つまり、何が神の前で大きな罪となるのでしょうか。もちろん大きな罪はたくさんあるでしょう。しかしあわれみの神は、私たちが真実に悔い改めるなら、それらを赦してくださるお方です。しかし神からその大きな罪を赦された者が、人の罪を赦さないでいること、このことこそが大きな罪だと教えているのです。神の憐れみを忘れ、人を赦し得なくなっている、このことが神の心を痛める大きな罪なのです。

 「あなたは何が何でも人を赦さなければならない」という律法的なことを主は教えているのではありません。主イエスの十字架から溢れ流れる神のあわれみによって、初めて人を赦すことができるということです。自分の罪が赦されている、この実感が薄ければ薄いほど、私たちは人を裁き、人を批判し、人の罪を数える者になっていきます。あわれみを忘れたあの僕と同じ姿になります。

 しかし、いつも神の憐れみに帰る者は、その憐れみが溢れ出て、赦しに生きる者にならせていただけるのです。私たちは何を思い出し、何を心にとめているのでしょうか。人の罪や悪を数えながら生きると、苦しくなります。むしろ神のあわれみにを心にとめていく時、私たちの内側に神の愛とあわれみが湧き出てくるのです。



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