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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

主食

 本当に北海道だろうかという猛暑日の続いた先週の北見と紋別。妻が一人暮らしの方々や気になる方々に、電話やメールをしながら安否確認をしておりました。皆さん、支えられているようで良かったです。そして日曜日(7/16)の午後は、暑さではなく局地的な豪雨に見舞われました。

 いろいろな天候がある中で、リズムの良い新しい賛美()や味わい深いトラディショナルな賛美()を歌いつつ、古くならない神の言葉を聞き、共に祈り、恵みを分かち合う、礼拝の1日を過ごしました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20170716
(250字のエッセンスは、コチラ

 パウロはピシデヤのアンテオケに来るまで、2千m級の山々を越えてきました。その時には盗賊の難、飢えること、裏切られること、いろんなことがその道中にあったようです。しかしパウロは、こんな宣教旅行に出かけなければ良かった、どうしてここまで来たのか、そういう後悔を口にしません。この後もののしられたり、石で打たれて半殺しの目に遭います。

 私が北見や紋別の教会から宣教に遣わされてそんな目に遭ったとしたなら、「あー、わざわざこんなところに来なければ良かった。北見や紋別の皆さん、ちゃんと祈ってくれてるのかなあ。やっぱり御心ではなかったのでは」と思うことでしょう。

 しかしパウロは、あーだとか、こーだとか、やっぱりこうすれば良かったとか言わないのです。弱い時にこそ強いという主の恵みを知っているから、うらまない、つぶやきに終始しないのです。むしろ獄に入れられても、真夜中でも、それでも賛美せずにはおれない、そういう命の輝きがあったのです。神の恵みにとどまり続けたから、「こうしなければ良かった」という人生の呪いから解放されているのです。



 42節で、「同じことについて話してくれるように頼んだ」と記されています。口語訳聖書では、「同じ話をしてくれるように、しきりに願った」と訳されています。別の話ではなく、この話の続きをお願いして欲しいということでもなく、同じ話をしてくれるようにと、しきりに願ったのです。もし私が礼拝説教で、来週も全く同じことを話したとしたら、「先生、それ先週聞きましたよ。暑いので、先生、大丈夫ですか?」と言われるかもしれませんね(笑)

 同じ話とは何でしょうか。パウロはキリストについて語ったのです。神を敬う人々は、何度でもキリストの言葉を聞きたくなる、キリストの言葉を味わいたい、キリストを知りたい、そういう霊的な飢え乾きが起こっているのです。

 主イエスは「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)と言われました。キリストを食して、キリストを味わう、それが私たちの体、いのち、人生になっていくのです。

 日本人にとって主食はお米です。基本的には、お米が飽きたとはならないでしょう。生まれてからこんなにたくさん食べ続けているのに、もう白米いいやあとはならないものです。命のパンであるキリスト食す、キリストの言葉を聞く、キリストから聞く、何度も聞き続ける、キリストの言葉である聖書を読み続けることに飽きてしまうことはないのです。むしろそうする時、私たちは生きるのが嫌になったりしない、命が生き生きとするのです。それが恵みにとどまるということです。



 午後からの分かち合いで、Mさんが「主食の『主』は、『主』イエスの『主』ですね!」と言われ、「おお〜〜」と皆さんでうなずきました。

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