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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

足のちりを

 7月23日の日曜日。この日の午後からは、何も予定しないフリーの日。それで礼拝も10分ほど延長しながら、賛美や祈りの時を少し長めに持ちました♫ (遠方などのために、祈祷会に来られない方々もおられるので、普段の礼拝でもやや多めに祈る時を持つことを心がけています)

 時おり、地震のような音と揺れが2階から聞こえてきましたが、来週日曜日に開かれる「第5回チャペルフェスティバル」で、子どもたちがダンスしながら賛美するので、その練習のために飛んだり跳ねたりしていたようでした。

 礼拝後、私たちは急遽、市内の病院にお見舞いに行ってきました。教会ではお昼ごはんを食べている方々、来週のチャペルフェスティバルの打ち合わせや練習をしている方々などがおられました。午後からはフリーの日曜日でしたが、結局、夕方ぐらいまでワイワイガヤガヤ、楽しく過ごされる方々もおられました。

 以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20170723
(250字のエッセンスは、コチラです)

 足のちりを払い落とすとは、メシヤを拒絶する人々の罪から自分を切り離すという意味があるでしょう。英語のNIVでは「警告として、足のちりを払い落とした」と訳しているように、警告の意味もあります。しかしパウロとバルナバの思いの中に、「俺たちの言うことを聞かなかったお前たち、滅び失せるがいい」という思いを込めて、サンダルをパンパン叩いて足のちりを払い落としたわけではないでしょう。

 なぜならその後に、喜びと聖霊に満たされている様子があります。人のことをゴミのように、汚いものを払い落とすような人が、聖霊の喜びに満たされているとは思えません。では、パウロとバルナバは、アンテオケの町を出る時に、何を払い落としたのでしょうか? 
 
 それは拒絶され、嫌がらせにあった、そういったことがらを苦々しく思ってしまう自分の思いを、自分の心の中から払い落とすということでしょう。いろいろあったけれども、もう引きずりませんということです。

 パウロとバルナバは、一生懸命に愛を込めて福音を語った結果、信じて喜んだ人もいましたが、信じなかった人々も多くいました。しかも信じないだけではなく、(45)燃えるほどにねたまれ、反対され、たこと、口ぎたなくののしられ、(46)拒まれ、(50)扇動され、迫害され、追い出されたのです。どれ1つとっても嫌なことです。

 足のちりを払い落とすということ、それはそういう諸々の苦い思い出、辛いものを、いつまでも抱えながら歩んでいかなくていいということです。そういうものは、心の中に抱え込んで生きていくのではなく、払い落とすのです。誠意を尽くして、祈りつつ、その時の自分の持てる力で最善を尽くしてきたけれども、それでもなお、理解してもらえないことがあり、受け入れてもらえないことがあるでしょう。そんな時、「あんな風に言われた」「あんな仕打ちにあった」「なんか馬鹿みたいだ」、そんな風に自分の心の中に、苦々しいものを抱えながら歩むと、聖霊の喜びが消えてしまうということです。

 私たちは、何に執着していますか。「過去の傷や痛みを、人の仕打ちなど、それはもう抱えなくていい、もう捨てなさい、それらを心に抱えたままだと喜びがつまってしまう。あなたが神と人との前に誠実に歩んできたのなら、わたしがそれを知っている。いつの日かその意味もまた分かるようになる。だから恨み・つらみ、文句を捨てなさい。わたしはあなたの心をもっと救いの喜びで満たしたい。あなたの苦労は無駄にはならない。あなたの誠実を私は知っている、安心して次に進んで行きなさい」と主イエスは今朝、私たちに言われるのです。



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