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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

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 1月28日の日曜日。キラキラまぶしい、良い天気の朝でした。ただ次の日の月曜日は雪が積もっていたので、日曜日の朝でなくて良かったと自分を励ましつつ、汗びっしょりになって雪かきをしました。

 礼拝に引き続いてのお弁当愛餐会(昼食)。最近は当たり前のように、長机のテーブルを2つ足さないと皆さんが座れません。嬉しいことですね。

 良き分かち合いの後、「2018年の教会の指針」(昨年の決算を含む)を確認しました。丁寧に説明するので、けっこう時間がかかってしまうのですが、皆さんと心を合わせる、主にある幸いなひと時となりました。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20180128
(250字のエッセンスは、コチラ

 このサマリヤの女性の名前は聖書に記されていませんが、この女性が水を汲みに来た井戸は「ヤコブの井戸」という名前だったことが記されています。またこの女性は「私たちの父(先祖)ヤコブよりも偉い方なのですか」と父祖アブラハムではなく、ヤコブの名前を持ち出しています。

 町から離れたヤコブの井戸まで水を汲みに来ているのは、確かに人目を避けるためという1つの事実があるでしょう。しかしただ人目を避けるためだけではなく、旧約聖書のヤコブに対する思い入れをこの女性は持っていたのでしょう。イサクの子ヤコブも自分の町にはおれなくなった人、家族の関係がこじれにこじれた人でした。そしてこの女性もヤコブと同じように荒野を歩いているように感じていたのだろうと思うのです。

 「主よみもとに」を先ほど賛美しました。故郷を逃げるように出てきたヤコブが、荒野で石を枕にして眠っている時に、天から梯子が降ろされて、天の御使いが昇り降りしているのを目の当たりにしました。訳ありのヤコブ、家族関係・人間関係がこんがらがっていたヤコブに、天から梯子を降ろしてまで、主なる神が目をとめられました。同じように過去の身の上をひきずりながら荒野のような現在を歩んでいる自分にも、目をとめてくださらないだろうか。この女性は、そういう心の渇きを抱えつつ、数kmも離れているこのヤコブの井戸に水を汲みにきていたのでしょう。



 私はあまりよく知らないのですが、「放浪記」という小説を書いた林芙美子というい方が、「働き者だというので愛されていることは苦しいことである」と述べているそうです。よく分かります。

 「もっと夫がこうだったら」「もっと妻が」「もっとうちの子が」「もっと姑が」、そういう「もっともっと」という付加価値ばかりを求めているところに、平安はありません。人間の存在価値を忘れて、相手の付加価値や生産価値、また利用価値を求めてしまうと、お互いに疲れ果ててしまいます。今、そばにいてくれる方がどんなに大切な存在か、そのことに気づく、それが愛というものでしょう。

 

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