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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

全然何も分かっていない

 4月15日の日曜日、私は雪が降る中を紋別に向けて車を走らせました。そう言えば、昨年の4月に紋別へ行く時も雪が降っていたのを思い出しました。大阪に行かれたMさんが天に召された報せを受け、涙雨ならぬ涙雪が降っていたこと、しかしそれは復活の希望を垣間見せる春の雪だったことを思いつつ、ハンドルを握りながら詠んだ歌を思い出していました(「薄紅色」)。

 紋別では、礼拝全体を通して主を喜んでいる雰囲気が伝わってきました。自分では恵まれて準備した今回の聖書のメッセージでしたが、どうやら小難しくなってしまったようです。それでも、そういう心もとなさを優しく覆うような、静かな主恵みを味わいました。

 私がいない北見でも、協力し合いながら礼拝を守っておられたようです。帰ってきてから、心地良い疲れにまぶたが重くなりながらも、妻とお互いの日曜日を感謝しつつ分かち合いました。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20180415
(250字のエッセンスは、コチラ

 主イエスは何のために十字架にかかって死のうとされているのでしょうか? 51節で「イエスが国民のために死のうとしておられること」、また52節で「散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとして」とヨハネは説明しています。主イエスは私たちを罪から救い出し、そして、一つに集めるために十字架にかかられたのです。罪から救い出されるためだけではなく、ユダヤ人も異邦人も一つに集めるため、和合して共に生きていけるように、主の教会を生み出すために十字架にかかられたのです。



 注目して頂きたいことは、大祭司が議長を務める大切な会議なのに、祈っている姿が無いのです。神を信じる者の代表者たちなのに、「神」という一言もその口から出てきません。大切な事柄を話し合っているなら、神に向かって祈ってもいいはずなのに、祈りがありません。

 祈りが無いと、「あなたがたは全然何もわかっていない」と言った大祭司カヤパのように、自負や思い込み、そして高ぶりが生まれてきます。そしてそういう肉の性質は、すぐに裏返ります。「自分は知っているんだ」という高ぶりは、何かがあると、「誰も自分のことを分かってくれない」という自己憐憫に陥ることになります。祈りが形式的になっていたろ、祈り積まれていない時、結局のところ、自分のこと、自分の気持ち、自分が中心になっていくのです。



 ヨハネは、カヤパの言葉を預言だとこの福音書に記しています。表向きには、カヤパの言葉通りに事が進んでいき、主イエスが捕まえられ十字架にかけられていきます。カヤパの心根は、自己保身、自分中心です。自分たちが損しないで済むために、イエスに死んでもらった方が良い、そういう自分勝手な論理です。

 しかし後になってヨハネが聖霊に教えられて分かったこと、それは本質的にはカヤパの策略が進んだのではなく、主の預言が成就したということ。カヤパの策略を超えて、凌駕して、主イエスが全人類の罪の身代わりとなって十字架にかかられたという主の御心が進められていったのです。だからこそ、カヤパの言葉を預言だとヨハネは言うのです。主なる神は、人の罪や悪をさえ用いてでも、主の御心を成し遂げられるのです。

 私たちの周りに、カヤパのように感じる人がいるかもしれません。自分のことしか考えていない、分かったようなことを言う、嫌だなあと感じる人。聖なる神はしばしば、カヤパのように真に神を信じていない人を通しても、御心を語られるのです。悪人、自分勝手と思うような人の言動さえも、主の御心のままに用いることをなされるのです。

 私たちは、理不尽な発言を聞かされたり、嫌な態度を相手にされたりすることがあります。相手から迷惑をかけられること、どう考えても相手が間違っていると思うこともあるでしょう。相手の動機、心根に、愛や優しさが、信仰が感じられないというものもあります。しかしだからと言って、そういう理不尽な発言や、相手の嫌な態度に失望して、ぶつぶつ言っていてはいけないのです。

 私たちの主なる神は、人の罪や悪があれば、全く働かれないということではありません。ましてや人の悪や罪、理不尽さや混乱に、負けてしまう神ではありません。神は聖なるお方ですが、人の悪や罪に負けてしまう聖ではありません。むしろ、そういう悪や罪をも主イエスは背負って、十字架の上で主の御心を成し遂げてくださったお方を私たちは信じているのです。



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