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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

真ん中に立ち

 5月20日は、ペンテコステ礼拝でした。その前の週、私は紋別に出かけていましたので、祈祷会に出席されている皆さんは別として、他の北見の皆さんとは「久し振り感」がありました。反対から言えば、紋別の皆さんにとっては、もっと久し振り感を与えているのでしょう。今年2月の教会総会で「もっと紋別に来て下さい」と話されたことが身に沁みています。

  午後からは愛餐会、そして楽しく豊かな分かち合いの時を持ちました。午後3時からは「世の光ラリーinオホーツク」の決起祈祷会に行ってきました。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20180520
(250字のエッセンスは、コチラです)

 セールスでは、「あれはいかがですか、これはいかがですか」と言って、私たちに様々な商品が勧められます。先ほどヨハネ20章で、甦られた復活の主イエスの言葉を皆さんでご一緒に読みました。主イエスは、「聖霊を受けよ」を招いておられます。「もし良ければ、聖霊はいかがですか?」という程度のお勧めではありませんので、「そうですか。でも今は間に合ってます。また次の機会に」ということでもありません。聖霊を受けても受けなくてもどちらでもいいという程度のお勧めではなく、「聖霊を受けよ」というのは無くてはならないほどに大切な主の命令なのです。



 ヨハネ20章19節「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と新共同訳聖書では訳されています。(Jesus came and stood in the midst, and saith unto them, Peace be unto you. ASV)私はこの新共同訳が好きです。どんなに心を閉ざしていても、扉に鍵をかけていても、復活の主イエスはその真ん中に立ってくださるのです。そして平安があるようにと、平安・平和を造りだして下さるのです。私たちが聖霊を受ける時、そういう平安を与える主イエスを示されていきます。聖霊に満たされる時、主イエスの平安を私たちの心の真ん中に与えてくださるのです。



 「私たちが私たちに罪をおかす者を赦すなら、その人の罪は赦される。しかし赦さないなら、その人の罪はそのまま残る」、とても責任がある言葉だなあと思います。誰かの罪を赦す、これは聖霊によらなければできないことです。自分の思いで「赦す」と言ったとしても、何かの時に思い出す、苦々しくなります。聖霊によってこそ、本当の意味で人々の罪の赦しのために祈ることができるのです。あるいは祈りの中で、聖霊が助けてくださって、赦す心を与えて下さると言っても良いでしょう。



 主はイエスは、私たちを「遣わす」と言われました。私たちは聖霊に満たされて遣わされていくのです。教会の礼拝の中だけで、心がすっとしたということで終わらず、私たちの生活の現場に遣わされるのです。そこには思い煩いや不安、嫌になることもあるでしょう。そこで主に向かって祈る時、その真ん中に生きておられる主イエスが立っておられることが分かります。そして平安と喜びを与えて下さることを聖霊によって体験するのです。



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