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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

信仰という名のもとに

 先週日曜日(7/1)は、紋別での合同礼拝でしたので、そこまで行けなかった方々とは久し振りにあったような懐かしい感じがしました。礼拝の中で、記録的な大雨によって被災された方々、救助を待っている方々とその地域のために、言葉にならない思いを抱きつつ、心を合わせて祈るひと時を持ちました。

 この日は遠くはるばる清里町から3名、小清水町から3名の皆さんが集われました。嬉しいものです。お弁当愛餐会の後も豊かな分かち合いのひと時となりました。午後2時から虹の会(三浦綾子読書会)でした。以下は、礼拝メッセージの断片集です。

20180708

 会堂の無いピリピの町は、ルデヤにとっては住みにくい町だったでしょう。それでもルデヤは神に心を向けて祈り続けていきました。パウロにしても、行き詰まりを覚える中で、それでも祈り続けてピリピにやってきました。そういう神に心を向ける祈りと祈りが重なって、このピリピの町で神の愛と救いの業が始まっていったのです。



 心を神に向けて祈り続け、心が開かれて神の言葉を心に留める時、隣人に対して、また真の神に対して、神の働きに対して、私たちの心を合わせて生きていくようになります。私たちも主によって心が開かれていく時、周囲にいる人たちを見て見ぬふりをするのではなく、心を合わしていく愛が与えられていきます。そして自分のためだけに生きていくのではなく、愛する主なる神と心を一つにしていくようになります。ルデヤが主の働きのためにパウロと心を合わせたように、私たちもキリストと心を合わせ、キリストの働きに自分自身を用いていただこうではありませんか。



 祈りとは神との交わりのことです。ただ一心に何かを唱え続け、洗脳され、薬を飲み、電流を流すことでは決してありません。神の言葉を聞くことが信仰です。パウロが語ったのはパウロの考えではなく聖書の言葉でした。教祖の言葉を盲信して実践していくことが信仰ではありません。神を愛し、隣人を愛すること、愛によって心を合わせるが本当の信仰です。家族が隔離され、断絶していくことが、信仰ではありません。

 信仰という名のもとに、心が狭くなっていく、それは真の信仰ではありません。本当の信仰とは、主が私たちの心を開き、罪を赦し、神を愛し、隣人を愛する歩みになっていくのです。



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