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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

目に入らぬか!

 7月29日(日)、この日は暑かった〜。2台の冷房をガンガンに・・・というほどではありませんが、やはり礼拝堂の前と後ろに1台ずつ設置して良かった〜という感じでした。第5週目の日曜日は、基本的に午後からのプログラムを入れていないので、礼拝もいつもより少し長めに、ゆったりと祈りの時間を多くとることができました。

 ペンテコステの日の前後は、「使徒の働き」をだいたい2章ずつ礼拝で主のメッセージを分かち合っています。この日が今年の最後、15〜16章、全部で11回の「使徒の働き」シリーズとなりました。以下は礼拝メッセージの断片集です。

20180729
(250字のエッセンスは、コチラ

 「パウロとシラスは、どうしてローマの市民権があることを、最初から言わないのか?」そういう疑問を私たちは持つでしょう。長官たちはパウロたちにローマの市民権があることを知り、恐れ、慌てて飛んできて詫びたのです。ローマ帝国のローマの市民権を持っているということ、それは大きな特権だったのです。それでは、なぜ鞭打たれる前に言わなかったのでしょうか。その時に言っていれば、鞭打たれることも獄に入れられることもなかっただろうと思うのです。

 ここで日本人が思い起こすのは、水戸黄門の印籠です。「この紋所が目に入らぬか!こにおわす御方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!一同、頭が高い!控えおろう!」、どうしてこの印籠が出るのは、いつも決まってだいたいあ8時45分なのでしょうか。「最初から出しておけばいいのに」と思うのですが、もちろんそれは愚問です。そこはドラマですから、勧善懲悪 最後に正義が勝つということで、特に高齢の視聴者は安心します。私も小さい時、祖父の家に泊まりに行ったら、必ず見ていました。

この印籠が

 さて話しをパウロに戻すと、どうして鞭を打たれる、獄にいれられるということは、ドラマの話しでもなければ、普通のことではありません。またパウロの性格からすると、鞭打たれる前に言わないのだったら、鞭打たれた後にも言わないだろうと思うのです。それが何故釈放が決まっている段階で、わざわざローマの市民権があることを伝えたのでしょうか。長官たちの間違いを正し、謝って欲しかったから、もちろんそういうことではありません。

 その問いの答えのヒントは、40節にあるのでしょう。「牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った」。釈放後、ルデヤの家の教会にいる皆さんをパウロたちは励まします。ここがポイントです。ピリピの教会の兄姉たちのことを思い、彼らへの配慮、また彼らを励ましたい、そのことがパウロの根底にあるのです。

 パウロたちはこの街を出るということ、それは誕生したばかりのピリピの教会を後に残すことになります。みんながみんな、パウロやシラスたちのような強い信仰を持っているわけではないでしょう。その幼い群れであるピリピの教会が、町の支配者たちから不当な扱いを受けないようにという配慮ゆえの行動でしょう。パウロは町の長官に「自分たちは不法なことをしたわけではない、むしろ落ち度はそちらではないか」と、堂々とキリストを信じることの勇ましさ、高潔さを示していくのです。キリストを信じる者は、法を守り、秩序を守る者、怪しい者ではない、毅然とした態度をとるのです。そうすることで、この生まれたばかりのピリピの教会が不安にならないようにと配慮し、励ますのです。

 さらに言えば、パウロはルカをピリピに残していきます。パウロにとってルカが宣教の働きに加わったことは、大きな慰めでした。彼は医者であり、聖霊に満たされた人です。しかし自分のためにルカを連れて行くのではなく、ピリピの教会のために残すのです。その根底には、ピリピの教会を励ますという思いが込められています。

 パウロとシラスは、鞭打たれ獄に入れられても、祈りと賛美を捧げていく、そういう信仰を持っていました。信仰とは、あの人のが謝らないとか、自分が悪くないとか、そういう自分という枠が崩されていきます。賛美しましたように、悲しみ尽きざるこの世にあっても、救い主を見上げ、天国の心地を持って歩んでいけるのです。そういう信仰を持つ時、自分が痛み目にあうとかどうとかということではなく、周囲の人を励ましていく、配慮していくことが信仰者の根底に流れていくのです。



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