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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

そこには無理があります

 10月7日(日)、前日からの台風が温帯低気圧の変化し、北海道もその影響を受けていましたが、予想していたほど荒れるということはなかった日曜日の朝でした。礼拝メッセージの最中、おニ人の方がスヤスヤと第三の天に昇られていました。きっと一週間いろいろと頑張って過ごされたので、主の前に安息を得られているのでしょうね。以下は礼拝メッセージの断片集です。

 私たちもヨナのように、大きな潮の流れや渦の中に翻弄される、振り回されるような出来事に見舞われることがあるでしょう。そこで過呼吸になったり、不安に陥ったり、もがけばもがくほどに絡みついてくるものあるかもしれません。心も体も暗闇の底にいるような思いをすることもあるでしょう。

 そこで「だから駄目だ」ということではなく、私たちが主イエスを信じているということは、「しかし、私の神、主よ」と、そういう中でこそ救いの主を見上げる信仰を聖霊によって与えられているということです。そして私たちもヨナように、私たちを見捨てない神の愛を必ず体験していくのです。



20181007
(250字のエッセンスは、コチラで)

 キリスト者は、木や石で作られた神を礼拝しません。しかし真の神を信じているのに、真の神を偶像にしてしまう罠に陥ることがあります。「神様、こうしてくれないと困ります」「神様、私の願い事はこれだけあります」と、いつの間にかあの善悪を知る木の実をもぎ取ったアダムとエバのように、自分の願うこと、自分の目で見て良いと思うもの、そうじゃないと嫌だと、真の神を偶像にしてしまうという罠です。



 2:8の「偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」という言葉の意味は、深いなあと思います。偶像の本質は貪欲です(コロサイ3:5)。貪欲、自分の思いを通す生き方は、神の恵みを捨ててしまう生き方になります。

 聖歌に「祈りすれど手応えなく」の3番に、「恵み持たず、賜物のみ、慕うとも益無し、汝が全てを献げ尽くし、火を待てや静かに」という歌詞があります。賜物、すなわち神様に自分が欲しいと思っている賜物、プレゼント、ギフトばかり慕っているとしなたらば、そこから良いものが生まれてきません。それはむなしい信仰生活になります。贈り主よりも、贈り物を求めているようなもので、そこにはいのちの関係がありません。

 信仰生活は、恵みが土台です。恵みとは、生かされていること、赦されていること、愛されているということなど、どんな外的な状況の中でも奪われることがないものです。そういう根本的な恵みを忘れてしまうと、虚しい生き方になり、その歩みに感謝が出てこなくなります。

 しかし外的な状況はどうであれ、今日も新しい1日が与えられている、家族がいること、今日も神の愛が私に注がれている、そういう恵みに目を留める時、感謝が出てくるのです。時々、何か無理やりにでも「感謝しなければ」と眉間にシワをよせている方もいますが、それはやはり無理があります。感謝すべき第一のことは外側の状況ではなく、内側に与えられている恵みです。救われていること、主イエスを信じているということ、そういうどんな状況でも恵みを感謝することが大切なのです。そこから感謝と礼拝が生まれてきます。



(1日1章 士師記3章「牛のむち」)

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