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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

場違いだと思うところ

 10月最後の礼拝は、洗礼式の恵みにも与ることができました。前日の雨がさっぱりと止み、天から梯子がかけられているかのような高い空の清々しい秋晴れは、まさに洗礼式にふさわしい日でした(洗礼式の日が雷だったとしても、それはそれで信仰的な意味付けをしているのですが!)。

 初めて教会の洗礼式を見たという年輩の方々が、熱くなった目頭を抑えて感動している姿と同時に、信仰歴50年以上のIさんが大粒の涙を流して初めの愛を思い起こしつつ祝福している姿に、私自身の心も震えずにはおれません。

 午後からの愛餐会(昼食)でのお祝い会、そしてEnglisg Worshipと幸いな1日でした。以下は礼拝メッセーの断片集です。

20181028
(250字のエッセンスは、コチラです)

 主イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗り込ませました。弟子たちは主イエスに従ったのに、どうしてこんな嵐に遭遇するのかという憂き目にあいました。主イエスに従いさえすれば、問題が無くなってしまうわけではないということを私たちも学びます。

 しかし弟子たちは、真夜中の3時に、嵐の只中で、主イエスが湖を歩かれ、波も風も静められるのを確かに体験しました。まさかこんなところに主イエスがおられなんて、そういう場所に主イエスはおられるのです。主イエスに従って上手くいかないところを通ったとしても、そいう場違いだと思うところ、辛いところ、しんどいところに救い主は現れてくださるのです。



 ペテロは舟を降りて、主イエスのもとへ行こうとしたが、波風を見て溺れてしまいました。ある人は「わざわざ湖の上を歩くとか、そんなことしなくても良いのに。そんなことをするから、溺れるんだ」、そう言うかもしれません。私たちは居心地の良いところ、安全策、自分の知っている範囲、そういう枠にいたいというものを持っているものです。

 しかしペテロが舟から降りた理由は、それは主イエスがおられるところに行きたかったのです。主イエスに近づきたいという、信仰の思いなのです。しかもそれは闇雲な信仰ではありません。ペテロが尋ねた時、主イエスは「来てはいけない」と言われなかったのです。むしろ「来なさい」と言われたので、信仰を持って一歩を踏み出したのです。(「来なさい」とも言われていないのに、何か飛躍的なことを「自分の信仰」と称してすることは、主イエスに従う信仰ではありません)

 もちろん、ペテロは主イエスから目を離し、怖くなり溺れてしまう、それは1つの失敗かもしれません。しかし愛する兄姉、一番悪い失敗は、波の中に沈んでしまうことではありません。一番悪い失敗は、主イエスが招いているのに舟から出ようとしないことなのです。そういう意味で、私たちは主イエスが招いておられるのに、安全地帯にその身を置いてしまっていることはないでしょうか。信仰の道を歩んでいるでしょうか。

 弟子たちの中で、他の誰でもない、主イエスのもとに近づいたペテロだけが、主イエスの力強い御手を体験したのです。失敗はしたけれど、その力強い御手でしっかり握られたのです。



(1日1章 ヨハネ3章「恐れて」)

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