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北の大地で 星を数えながら

~日々の出来事や感じたこと、聖書の言葉など 小さくても星のようにキラリ☆光ることを 分かち合えればいいなぁ~

拳を握るのではなく

 昨日に引き続き、11月25日の礼拝メッセージの断片集です。

 4章5節を通して、ヨナがいかに礼拝の心を忘れていたかがよく分かります。「ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり」とあります。神の命令はニネベに行けということでしたが、そこにとどまらず、神の言葉を無視しているヨナの姿があります。また「町の東のほう」とは、1章でヨナがニネベとは反対の東の果てであるタルシシへ「主の御顔を避けて」逃げていく様と重なります。礼拝を忘れているヨナは、神の言葉を無視し、神との人格的な交わりを求めず、物理的にも心理的にも信仰的にも距離をとっています。

 続いて「そこに自分で仮小屋を作り」ました。ヨナは神を信じる預言者です。そのヨナが作るべきものは、仮小屋ではありません。彼がなすべきことは、祭壇を築くことだったのです。祭壇を築くとは、礼拝を捧げることです。口語訳では「自分のために一つの小屋を作り」と訳されています。他の誰でもない、自分のために作ったのです。礼拝を忘れてしまう時、自分中心になってしまいます。

 さらに「町の中で何が起こるのかを見きわめようと、その陰の下にすわって」いました。ヨナは傍観者になっています。我関せずということです。ニネベの人々がどうなろうと関係ないという思いです。参与者、当事者になっていません。ましてやとりなして祈ることもしません。真の神に向かう心からの礼拝を捧げることから遠ざかる時、傍観者、無関心、人と人との愛も冷えていくのです。悲しいことです。



20181125子ども祝福式
(2018年11月25日 子ども祝福式のプレゼント)

 真実な礼拝が捧げられる時、私たちは愛や忍耐、生きる力を頂くことができるのでは何故でしょうか。礼拝というのは捧げることです。受けることよりも捧げることに本質があります。捧げて、委ねた結果、私たちは得るのです。私たちの思い、これからのことを心配するのではなく、全てを支配しておられる主に信頼してゆだねます。自分の願いどおりにではなく、私たちの我を通していくのではなく、主の御心がなりますようにと捧げていきます。その中で、愛と忍耐が与えられていくのです。



 賛美や祈りの時に手を挙げるのは何故でしょうか? それは献身を表し、委ねること、明け渡しを表しています。基本的には拳を振り上げて賛美や祈りを捧げません。多分、拳を握るというのは、自己充足の思いが強いでしょう。自分のものを握りしめている様、自分の願った通りになった時の「よし」、「やった」、「そうだ」、「どうだ!」という世界です。

 しかし賛美や祈りの中で、手の平を広げて私たちの握っているものを主に委ねていく、自分を捧げていくのです。恐れも心配も痛みも、思うようにならないことも、「主よ、あなたが支配してください」と全知全能の主に明け渡していきます。その時、あるいはその結果、私たちはその広げた手で、主がくださるものを受け取ることができるのです。それが礼拝んp恵みです。



(1日1章 使徒7章「力があった」)

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